四月、一の坂川の両岸は狂おしいほど桜の色で覆い尽くされる。いっせいに蕾はひらき、春の風は薄紅色に染まる。大内弘世がはじめて目にした都大路の雅びは、いかなるものであったのだろうか。大内氏盛衰の歴史を語るとき、豪奢な都文化を愛し西国の地に京の都を模したことに終始する。室町の時代とともに歩み、やがて乱世の舞台にその幕を閉じていった中世の覇者。春の日の雅びは大内氏の夢の跡へと駆けめぐる。
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南西太平洋に発達した台風が、琉球列島の南端をよぎり東支那海へと進むという予報の出た九月一日、長門市大寧寺にある大内義隆の墓を訪ねた。
大寧寺は応永十七年(1410)に開山の古刹で、樫、杉、松、楠などの老樹が繁る境内は、夏の終わりをつげる法師蝉の声がしきりであった。 中国から渡航して来た禅僧が、山容が江西省の廬山に似ているので東廬山と呼んだといわれる寺の裏山の中腹に義隆の墓所がある。山は全山が椎、櫟などの闊葉樹林で、朽葉に被われた急な石畳の道を登って行くと墓所に到着する。
広々とした墓所の一角、一段と高い石組みの上に義隆の墓石があり、それをとり囲むように武将たち相良武任、平賀隆保、冷泉隆豊等の墓石が並んでいる。いずれも鎌倉時代から武家の墓の形式といわれた“宝篋印塔”で、厚く苔むしており、樹林の上にある雲足の早い空から洩れる陽を淋しくうけていた。
大内義隆がこの大寧寺の地に自らの手で命を絶った時刻、西の京と謳われた山口の町は、陶隆房(義隆の没後、晴賢と改名)の反乱によって晩夏の空を焦がす業火に、その繁栄の街並のすべてが灰燼に帰しつつあった。天文二十年(1551)の九月一日のことである。
山口市を東西に貫流する椹野川の支流一の坂川は、市内の古い町並の中を流れる川幅のせまい川である。
川をはさむように両岸に立ち並ぶ家々のたたずまいは、昔風な静かな落着きがあり、川のせせらぎの音が聞えて、市街地を流れる川としては水が澄み、川底に遊ぶ魚群の姿が見られるほどの清流である。 一の坂川に沿う街並を後河原、中河原と呼び、川岸に沿ってサクラ、ヤナギ、ツツジなどが植えられ、四季それぞれのおもむきをみせる。
春はことに両岸に咲くサクラが見事であるが、春たけなわとなり風に散りはじめたサクラの花びらが、花筏となってゆるやかに川面を流れてゆく姿は、京風をとり入れた絢爛たる大内文化の往古を偲ぶにふさわしい風情である。
花の時期が終わり、セキレイや、翡翠色の羽が美しいカワセミが姿を見せる頃から、一の坂川の水辺が夕闇を迎えると幻想的な光芒を放つホタルの乱舞となる。
古くから京都宇治川では源三位頼政の怨霊がホタル合戦をするという神秘的な伝説があるが、古い町並の夜を流れる川面に舞う光の宴は幽幻的で、以前は一の坂川ばかりでなく本流の椹野川河畔も、幾万といわれるホタルの光芒にいろどられたという。
梅雨があけ、こぼれホタルの淡い光が消える頃になると、山口盆地に祇園祭りの夏がやってくる。
山口祇園は応永年間大内弘世が京都八坂神社の分霊を勧請した山口八坂神社の祭礼で、古くから「お祇園さん」と親しまれ、四角、六角、八角三体の神輿が「まわせ、まわせ」のかけ声で町筋をねり歩き、近郷近在から集まる人々で賑う。毎年七月の下旬を祭礼の時期として五百年の伝統を持ち、今なお山口では八坂神社周辺の町筋を祇園と呼ぶ。
祇園さんが終わり八月の声をきくと間もなく七夕提灯まつりが行なわれる。
八月七日、山口盆地をめぐる山々が、薄墨色に夏の遅い夕暮を迎える頃、数万個といわれる紅提灯が一斉に点灯され、古都は笹竹に吊された紅い灯の海の中に沈む。
大内時代、熊本の細川幽斎が京都からの帰路山口に立ち寄ったところ、丁度七夕祭りの宵であったことから、その見事に並ぶ提灯の明りのさまを筆録「道の記」に書き残しているほどである。
室町時代、京都には美しい盆灯籠と踊りの輪のひろがる夏があった。それはふりゆう(風流)と呼ばれる装飾や化粧の趣向を凝らした男女が、絢爛豪華に都大路をはじめとして京洛の町々に舞い踊る祭礼の夜である。その祭礼の風俗が、越前一乗谷、土佐中村などとともに周防山口へもうけつがれてきた。
大内氏が山口に開府して六百年に近い。祇園祭りや七夕提灯祭りは、華麗さのなかに滅びて行った王者への追惜を秘めた伝承行事として民衆の間に根強く生き残っている。
大内氏は推古天皇の時代に、百済の聖明王の第三王子琳聖太子が周防国へ帰化したといわれ、大内氏の二十五代義弘は百済王の末裔であることを特に強く主張し、その弟の盛見もまた琳聖太子は大内氏の始祖であることを認めている。
高句麗(こくり)、百済、新羅(しんら)の三国のてい立した時代の朝鮮半島に於て、中国の仏教文化を盛んにとり入れ、それを日本に伝えたのは百済である。
琳聖太子はその仏教文化を基礎とする新しい国づくりのために周防へ上陸したといわれ、防府市の大日古墳や山口市大内御堀の乗福寺にある墓などが証左するが、この時代が最も民族の交流が盛んであったときで、石見、周防、長門地域にはそれを示す朝鮮文化の遺跡が多い。
大内弘世が山口のこの地に町づくりをはじめたのが、延文五年(1360)のことで、すでに六百年の月晨が流れている。
高羽ヶ岳、龍門岳、鳳翩山など西中国山地を源流にして盆地中央を流れる椹野川の支流一の坂川を京都の賀茂川に見立て、居館を置いた大殿大路を中心に町の区画割りをすすめた。
大殿大路、鞍馬小路、和歌殿小路、春日小路、馬場殿小路、伊勢小路、太刀売、札の辻など京風を偲ばせる町名が今も在り、大内氏の居館跡として残る大殿大路の龍福寺は、天文二十年(1551)の陶隆房の反乱の兵火によって焼失したのち、弘治三年(1557)に毛利隆元が大内義隆の菩提寺として建立したもので、その後建て替えはあったものの本堂は室町時代の建築様式を伝える伽藍として国文化財に指定されているが、参道の石畳を通り入母屋造の本堂までの境内は、大内館(おおうちやかた)の広大な規模を想像することができる。
祭りと踊りの夏がすぎ、一の坂川の水の流れが細くなってくると、ホタル護岸として自然石を使って整備された川岸には群生するイヌタデが薄紅色の小さい花をいっぱいにつけ、オハグロトンボが川石に羽をやすめる光景が見られるようになる。喧噪の夏から静寂の秋へと川の自然が歴史への回想を語りかけてくれるなかを、川沿いに上流へと伊勢橋、木町橋とたどって行くと、古城ヶ岳の萩とススキの群落を背景にした瑠璃光寺の五重塔が、雄渾な室町建築の美を見せて立つ。
作家の司馬遼太郎氏は、その著『街道をゆく―長州路』のなかで次のように述べている。
「駆けて行って塔の下までたどりついたときは、もう肩から濡れそぼってしまっていたが、正面の塔の古色が尋常でないために、自分が幻想の舞台にとびあがってしまったようで、雨どころではなかった。
(長州はいい塔を持っている)と惚れぼれする想いであった。――」
また、――長州人は見かけによらぬ優しさがあり、それは山口に八街九陌をつくった大内弘世や、ザビエルの一行を保護した大内義隆などの大内時代を知らねば理解できないような気がする。ともあれ、草の上に置き捨てられ、守人もなく廃都の風雨にさらされた塔が、いま雨の中に光っている。――雨中を湯田の宿から瑠璃光寺までかけつけた司馬遼太郎氏の五重塔との対面の感想である。
五重塔は応永六年(1399)泉州堺で戦死した大内義弘を弔うために、弟の盛見が建立したもので、応永十一年(1404)に着工し、嘉吉二年(1442)に竣工、桧皮葺の屋根は勾配がゆるやかで、軒の切れ込みが深く軽快で優美な感じである。塔の高さは31.2メートル、室町中期のすぐれた建造物のひとつとして国宝に指定され、大内氏繁栄の遺構として見応えがある。
山口盆地に京風の町づくりをし隆盛をきわめた大内氏が、天文二十年(1551)義隆の自刃を最後に滅亡して以来、五重塔は江戸時代末期に至る三百年間、衰微した山口の町はずれの山麓にあって、昔日の栄華を偲ぶ象徴のひとつとして風雪にさらされながらも、崩れ落ちることも、焼け果てることもなく今日までその建築美を保ち得たのは、この地に住む人たちの大内氏に寄せる熱い想いが塔を守りつづけて来たからに他ならない。
室町幕府の信任もあつい大内氏が周防、長門、石見、筑前、豊前、和泉、紀伊の七州を統御する守護大名の地位を築きあげてゆくなかで、広汎な国際的視野を持つ大名としても注目されているのは、朝鮮半島や中国大陸との文化の交流や経済交易もさることながら、フランシスコ・サビエルの布教を許すなど、その時代としては諸外国に対し新しい感覚を持った対応をしたことにもある。
日本の室町時代、すでに大航海時代を迎えていたスペイン・ポルトガルなどヨーロッパ大陸の国々はアジアへ向けての領土と交易の拡大を目指していた。
種子島にポルトガル人が漂着した天文十二年(1543)から六年後の十八年(1549)フランシスコ・サビエル一向は鹿児島に上陸したのち、カトリック教の布教活動に献身するため、京都へと上る前、長崎平戸を経て周防山口に立ち寄る。
サビエル一行が山口に到着したのは天文十九年(1550)十一月のことで、冬の訪れの早い山口盆地はすでに木枯らしが吹きはじめ、風花の舞う日も多い時季であった。
築山の館でサビエルを謁見した大内義隆はすぐには布教の許可を与えず、もっぱらヨーロッパやインドなどの海外事情を聴き、異国文化の匂いを吸収することのみに熱心であった。
失望して山口を去ったサビエルであったが、京都に於ても天皇には謁見出来ず、いったん平戸まで引き返し、あらためて翌二十年(1551)三月、一の坂川河畔にも春色濃い山口を再訪し、正式にローマ法王の使者として義隆に対面、時計、オルゴール、望遠鏡などを贈り布教の許可を願い出ている。
ようやくにして義隆の許可を得、廃寺まで与えられていたサビエルは、フェルナンデス修道士とともに山口の町で辻説法に立ち、布教開始後二ヶ月あまりで信者は五百人にもなったという。その信者のなかには琵琶を弾きながら平家物語などを語る琵琶法師了西もふくまれている。琵琶法師は鎌倉中期以降、中国渡来の楽器である琵琶を弾き語る放浪芸人として人気が高く、了西の入信は当時の山口の住民に少なからず刺激を与えたに違いない。この年の夏、陶隆房の反乱が起き、義隆に悲惨な運命が待ちうけるのであるが彼自身知る由もなかった。 サビエルが山口に滞在した期間はわずか半年であったが、この町に西洋音楽の音律を残すなどして、彼は天文二十一年(1552)十二月「明」に渡航しようとして待機中であった広東港の港外で熱病にかかって病没している。
フランシスコ・サビエルの山口渡来四百年を記念する「サビエル記念聖堂」が山口市内にある亀山公園に建造されたのは昭和二十六年太平洋戦争が終結して間もない頃のことである。
ふたつの青い屋根の尖塔を持つ聖堂から、毎日山口の町に鳴りひびく祈りの鐘の音は市民に親しまれ、とくに亀山公園の山麓にある県立美術館前のパークロードの並木越しに見る聖堂の絵画的な印象がうけ、市民だけでなく山口市を訪れる多くの人々に親しまれてきた。しかし、平成三年九月、不時の出火により燃えさかる炎の尖塔を夜空に浮かび上がらせながら、聖堂は押し寄せた市民が見守る前で焼け落ちた。
義隆はサビエルからも積極的に異国の情報を得ようとしたが、大内氏はことほか対外貿易などによる諸外国との交流に熱心であり、室町幕府を超えての単独交易も多く、その実力は朝鮮や中国から高く評価されていた。その頃、朝鮮半島から中国大陸沿岸にかけて倭寇の跳梁がはげしく、被害をうけていた李朝は大内氏にその弾圧を求めてくるなど、特別の信頼を寄せているが、これには大内氏が百済王の末孫であることを表明していることに対する好意もあったことは否めない。
「星の降る町」と名乗る市がある。山口県の瀬戸内海側、周南都市圏の一角下松(くだまつ)である。
下松という地名由来について『下松市史』は次のように記述する。
「下松の地名の起源に関して北辰降臨をめぐる伝承は、当地方でもっとも広く受け入れられて、今になお生きつづけている伝承といって良い。
北辰降臨の伝説を記している“大内多々良譜牒”によると、推古十七年(609)周防国都濃郡鷲頭庄(現下松市)青柳浦の松の木の上に大星が降って七日七夜赫々と照り輝いた。巫人の託宣によると異国の太子が来朝するので、あらかじめ守護するために北辰が降ったという。この異変に因んで降臨の地を下松浦と名づけ、星を祭って妙見北辰尊皇大菩薩と呼んだ。
その三年後、百済国聖明王の第三王子琳聖太子が周防国多々良浦(現防府市)に来着し、難波の荒陵で聖徳太子に謁し大内を采邑地とし多々良姓を賜わった。」
とある。北辰とは北斗七星を云う。
現在下松市にある降松神社の境内には太子の降臨を記念する松が植えられ、下松市は市のシンボル名称を「星の降る町」とした。
星の降る町下松市内を貫流して瀬戸内海に注ぐ川、末武川がある。
末武川は熊毛郡熊毛町八代にある烏帽子岳(六九六メートル)の山麓から発しているが、その源流は魚切ノ滝と呼ばれる滝である。
滝のある魚切地区には四百年以上の昔から伝承されてきた“花笠踊り”通称花踊りがある。
八代は山口県の県鳥ナベヅルの飛来地として知られている。西中国山地の標高六百メートル前後の山なみに囲まれた八代盆地に、秋の収穫の終わる十月末になると遠くシベリア地方からナベヅルの群が飛来し、翌年の三月馬酔木の花が農耕の時期を知らせる時まで滞在する。
江戸時代までは日本列島各地にツルの飛来はあったが、狩猟の乱獲によりその殆どが姿を消し、人情厚く古くから村人がツルに寄せる愛情に守られて八代盆地にのみ飛来する習性が定着し、国の天然記念物に指定されツルの里として親しまれているが、最近では周辺の開発が進み年々飛来数が激減しているのは惜しい。
伝承によると花笠踊りは京文化をこよなく愛した大内義隆の悲劇的な最期を惜しむ村人たちが、追善供養として踊り伝えたもので、七年毎の八月二十六日、八代地区二所神社風鎮祭に奉納される年期踊りである。踊り子は男女とも未婚者に限り、特に調司及び調庄と呼ばれる踊りの主役は、未婚の長男に限るというしきたりがあり、一生に一度しかその機会は無いといわれている。
踊りは笛、太鼓による古風なはやしに合わせ、大花灯籠を押し立て、花飾りのついた大輪の花笠を被った踊り子たちが優雅に踊る。踊りの口説(くどき)音頭も京言葉で綴られており、室町時代の京風のみやびを伝えた古式ゆかしい伝承芸能である。県内に多くの県指定無形文化財としての祭礼踊りが見られるが、大内義隆の追善供養として伝承されているものは他に無い。
『陰徳太平記』によると、義隆時代の山口の戸数は三万戸あまりとされているから、人口はほぼ十万人近くであったことが推測される。当時の日本の人口からしてまさに「西の京」としての面目を保ち、海外交易による明国人など諸外国から商人や技術者の往来が激しく、明国人の逗留する唐人小路まであった。美術工芸の技術向上もめざましく、大内塗、八幡焼、茜染などは後世に伝承され、現在も山口を代表する美術工芸の大内塗は、大内氏の家紋大内菱などを配した紋様を伝えているが、大内人形に見られる優美な表情は、大内氏の貴族文化志向の一端も覗かれてたのしい。
当時の山口の都ぶりの繁栄を裏づけるものとして山口十境の詩がある。
大内義弘の時代、文中二年(1373)に明から渡来した趙秩が山口の印象的な風景十ヶ所を選び詩に表現したものである。
山口十境詩
猿林暁月(古熊) 梅峰飛瀑(法泉寺)
初瀬晴嵐(宮野) 清水晩鐘(清水寺)
氷上滌暑(氷上) 南明秋興(御堀)
虹橋跨水(天花) 象峰積雪(象頭山)
鰐石生雲(鰐石) 温泉春色(湯田)
宮野下にある清水寺は、大内政弘の時代に保護を受け、現存する観音堂は大内盛見の造建といわれいまも鐘楼からの晩鐘が聞える古刹で境内にある楓は、新緑も紅葉も見事である。象頭山、鰐石橋なども見馴れた風景であるが、温泉春色と詩われた湯田温泉は、大内時代すでに湯治客で賑っていたといわれる。
宮野下にある清水寺は、大内政弘の時代に保護を受け、現存する観音堂は大内盛見の造建といわれいまも鐘楼からの晩鐘が聞える古刹で境内にある楓は、新緑も紅葉も見事である。象頭山、鰐石橋なども見馴れた風景であるが、温泉春色と詩われた湯田温泉は、大内時代すでに湯治客で賑っていたといわれる。
文明十八年(1486)雪舟は六十七才で山口に帰り「四季山水図」を画きあげるが、彼の最高の作品として国宝に指定されている。以後八十七才で没するまで、雪舟は山口の天花に雲谷庵をアトリエとして画業を積み重ね、宮野常栄寺に築庭された雪舟の庭は、大内政弘がその母妙喜尼のために造らせたものといわれている。庭園は中心に池を持ち枯滝や、立石を配しているが庭をめぐる竹林に京都洛北の風情を偲ぶものがある。
天文二十年八月二十九日、焼燼にけぶる山口を逃れる大内義隆ら主従六十余名は、最後の陣を敷いた法泉寺をあとに鋤尖山中腹の穂積峠を越え、吉敷中尾の集落を夜陰に乗じて過ぎ、大峠から綾木、岩永へと長門深川湾を目指した。
その吉敷中尾には大内氏の遺構として高峰城とともに国の指定史跡凌雲寺跡がある。 凌雲寺は大内氏三十代大内義興の築いた寺で、東鳳翩山の南麓を舌状に延びる中尾台地にあり東鳳翩山を源流とする渓流が東浴川と西浴川の二つに分れ台を囲むように流れ、大地の末端で再び合流し吉敷川となっている。
台上の中央部分に台の東西にわたって巨大な岩石の積み重ねられた大石垣が現存しているが、寺院の惣門の構えというより、その豪壮さは城塞として構築されたものと見るべきであろう。
台上にたって東南を見上げれば東鳳翩山の山頂が鋭角に聳えて間近に迫り、南西を見下せばはるか椹野川の流域吉敷平野がひろがりを見せ、まさに大内興亡の雄大な歴史の流れが身にせまる思いである。
いま台上は実りゆたかな水田地帯となっており、その台上の一角にある大内義興の墓石宝篋印塔のある墓所は、秋が訪れるとマンジュシャゲの赤い花の群落に囲まれる。
山口の町は以前に比較して積雪の日をあまり見なくなったといわれるが、冬期の寒さには盆地特有のものがある。
山口盆地の冬は、鳳翩山の山頂から、山々の尾根づたいに時雨が町へと降りてくることからはじまる。
大陸の高気圧の勢力が強くなって北西の季節風が吹きはじめると、日本海の水蒸気は雲となって内陸に向い、それが山脈の壁に当ると時雨になる。
北山時雨という固有名詞があるように、脊梁山脈を持つ京都盆地にも晩秋から初冬にかけて時雨れる日が多い。
時雨は気温が低くなると雪に変わり、冷い北風に舞う風花となる。やがて一の坂川の水辺にも薄氷を見るようになると、山口に本格的な冬が到来する。大内時代にはさらにきびしい冬があったに違いない。
山城史跡のある鴻ノ峯のふところに抱かれるように建つ山口県庁ビルは、十五階が展望ルームになっている。まず北側の展望ルームから外を眺める。目前に迫って見える常緑樹の山肌は古城ヶ岳の山麓である。眼下に老杉に囲まれた洞春寺の大伽藍がある。その山門は大内盛見が応永十一年(1404)この地に建立した国清寺の遺構である。
洞春寺から香山公園の木立を越えた向うに、瑠璃光寺の五重塔が五百年変わらぬ凛然とした姿で立っている。無言の歴史の証(あかし)である。
南側の展望ルームに移る。碧空のもとにまとまりを見せる山口の町並が一望に見渡せる。
東山も姫山も四季変わらぬそれぞれの姿があり、秋の陽を浴びている家並もまた古都らしいおだやかな風景である。
異国人の往来もしげく絢爛と咲き誇った大内文化はいまこの町のどこに生きているのか、江戸時代三百年間にわたる空白の歳月が、うたかたの如く室町の幻影を椹野川の河口はるかに押し流してしまったというのか。
これからさき、山口の町は大内文化という華麗な残映をひきずりながら、盆地いっぱいに息づく歴史の町として、さらにたしかな足音を昻めながら歩みつづけるに違いない。
(大内文化のまちづくり協議会会長 ふくだ れいすけ)