「応仁文明の乱」の西軍の重鎮として知られる大内政弘公(一四四六~一四九五年)は文武の将の典型で、二万首の和歌を詠んだと伝えられ、その中から選び抜かれた千百余首が「拾塵和歌集」に収められている。
同和歌集の「巻第五 羇旅歌」に収録された「冬旅」という歌の中の「こしち」という三文字に込められた大内氏の想いが分かると、大内氏のものの考え方の基本が分かり、そこから、大内文化の真髄が見えてくる。そこで、さっそく「冬旅」に直接触れてみて頂きたい。
冬旅
雪ふかみ 今朝のやとりに 帰る山 こしちに似たる 旅の空かな
何時のことか、何所でのことか、特定できないが、政弘公は、積雪を押して山越えせんと、朝、宿を立ったが、山道はあまりにも雪が深いので、山越えを断念し、今朝の宿に戻るべく、山道を引き返しにかかっている。引き返す山道も相当難儀なのであろう。「越路に似た旅の空であることよ」と悲鳴をあげている。当初は、その程度の想像力しか働かなかった。それどころか、行ったことも、見たこともない「越路」の豪雪を持ち出して歌を飾るという手法には違和感を覚えて、しばらくは「拾塵和歌集」から遠ざかってしまった。
ところが、随分と後になって「こしち」は深い意味を持つ言葉だと分かってきた。三坂圭治著「山口県の歴史」を見ると、政弘公の父・教弘公に法泉寺の僧・竺源恵梵(元・南朝兵部卿・師成親王)から「李花集」写本が贈られたとある。竺源恵梵こと師成親王のお墓と伝えられるものは、政弘公のお墓と仲良く並んで法泉寺ダムの東の山裾で苔むし、五年後には六百年を迎える。
「李花集」に直接目を通してみると、越路の歌が色々ある。「李花集」は、南朝初代・後醍醐天皇の皇子・宗良親王の自家集だ。竺源恵梵こと師成親王は、南朝第二代・後村上天皇の皇子で、大内義弘公の「応永の義兵」(応永の乱)の際には、義弘公と共に泉州・堺に籠城されたと伝わる。甥が叔父の歌集を自ら筆をとって書写し、歌道の弟子となった教弘公に教材として贈ったことになる。政弘公は、亡父・教弘公の蔵書「李花集」に目を通しているだろう。
そうなると、「こしち」の三文字には説明しきれないほどの歴史的広がりと、深い意味が込められていることになる。政弘公は、雪の山道を引き返しながら、南朝の征東将軍であった宗良親王の越路での労苦に想いを馳せているのに違いない。
宗良親王は、新田義貞戦死後の越後・北陸戦線で南朝の勢力回復のために大変な苦労をされた親王だ。興国二年(一三四一年)、新田義貞の遺子・義宗に擁立された宗良親王は越後の寺泊へ進撃し、そこで詠まれた一首が「李花集」に収められている。
ふる郷と 聞しこし路の 空をたに 猶うらとをく 帰る雁かね
京の都や吉野では、雁がねは春になると故郷である北の国へ帰って行くと聞いていたが、越後・寺泊へ来てみれば、雁がねは、越路の空をはるかに越えて、なお浦遠い海のかなたの大陸へ帰って行くという。自分は遠い越後までやって来て南朝勢力挽回のために苦労すると、身の不遇を嘆きたい気持ちになっていたが、雁がねたちのことを思えば、越後での苦労など何ほどのことがあろう。荒海を渡るほどのことではないのだ。宗良親王は、雁がねに負けないように頑張らなくては、と気を引き締めにかかっておられるのであろう。
他にも、この頃、宗良親王が越後で詠まれた豪雪の歌が「李花集」には色々とある。いくつか拾ってみよう。
ふる雪に 尾上の松も うつもれて 月みる程の 木のまたになし
やまふかみ ふりつむ雪を わくらはに 問ふひとなくて 年そくれぬる
何ゆゑに 雪見るへくも あらぬ身の こしちの冬を みとせ経ぬらむ
「やまふかみ」という表現は、政弘公の「雪ふかみ」という表現に似ているし、「こしちの冬」には都育ちの皇子の苦労が凝集されている。
雪ふかき ふもとをみてそ 帰りにし 山には道も たえぬと思へは
という歌は、山道を引き返すという点では、「拾塵和歌集」の「冬旅」と良く似た状況と言えそうだ。
政弘公が、「こしち」という一言を引きがねとして、南朝の征東将軍・宗良親王の越路での苦労を思い起こす感覚は、現代人が「浦賀」「下田」に「黒船」を連想し、「旅順」「二〇三高地」に日露戦争を想起し、「レイテ」「サイパン」「沖縄」に終戦への道を反射的に思い浮かべる感覚に近いのではなかろうか。圧倒的多数の現代人は、南朝の 征東将軍・宗良親王を知らないのだから、「越路」という言葉から宗良親王を想起できないのは当然で、政弘公の時代と現代とでは、時の隔たりが大きいのだと言う以外にない。
大内氏の場合は、弘世公の時代に南朝の常陸宮を奉じて、北朝の周防守護職・鷲頭氏を討ち、初めて南朝の周防守護職に任じられたという経緯がある。それを機に勢力を伸ばしたにもかかわらず、山陰の大勢力・山名氏が北朝に転ずると、支えられなくなったのであろうか、弘世公は、南朝に心をのこしつつも、幕府の誘いに乗って北朝に転じた。南朝から見れば、これほど身勝手な鞍替えはなく、許しがたいことである。大内氏は、南朝に心をのこしつつ、幕府に忠勤を励むという、単純には割り切れない、複雑な精神構造の下で行動することになる。弘世公の嫡子・義弘公の時代になって、南北朝合体の根回し交渉に精力的に働き、ついに合体を実現させて五十七年間の争乱の根源を修復したのも、合体が、この複雑な精神構造をすっきりしたものに戻してくれるからでもあっただろう。
ここらあたりまで分かってくると、「こしちに似たる 旅の空かな」は、何の違和感もなくなる。政弘公は、雪の山道を引き返しながら、「越路の雪はこれ以上であろうなあ~」と宗良親王の越後での苦労に想いを重ねているのだ。それほどまでに、弘世ー義弘=盛見=持世=教弘-政弘と続く大内氏歴代は南朝及び旧南朝に心をのこし続けていたということになる。
そして、あの違和感は自分の不勉強のせいであった、文武の将として天下に知られた政弘公に対し、この上なく失礼な感情を抱いてしまったと、深く反省させられ、恥じ入ってしまう。が、それも、よく考えてみれば、政弘公の時代と現代では時代が隔たりすぎているというだけでなくて、義弘=盛見=持世=教弘ー政弘という時代は、これまでふるさと山口では、踏み込んで語られることなく経過してきたという事情がある。「大内文化」というキャッチフレーズが、あれほど氾濫していながら、どういうわけか、大内文化の真髄には手を触れられないままになっている。
それでも、歌は日本語だから長年抱きかかえているうちに、何やかやと関連のものがアンテナに飛び込んで来て、歌が詠まれた背景が徐々に分かってくる。すると、良く練られた実に的確な表現であり、政弘公はさすがだと素直に思えてくるようになる。「拾塵和歌集」を見ていると、最初に違和感を生ずる歌は、ほとんどの場合、「こしち」と似たようなプロセスを経て、不勉強を痛感させられ、なるほどと、感心させられて結着することになる。
※大内政弘の和歌の出典=「拾塵和歌集」大内政弘著 荒木尚校訂(西日本国語国文学会翻刻双書刊行会 昭和39年)
(文責 ふるさとだんぎ 岡田勝榮)