儒学に篤く、五経を寄進するなどして足利学校を再興したことで有名な上杉憲実は、晩年に長門の大寧寺に入り、同寺で亡くなりました。大寧寺では、当時の大内氏当主である大内教弘とも交流がありました。
上杉氏の祖は、藤原氏勧修寺流の庶流で、建長4(1252)年第6代鎌倉幕府将軍宗尊親王に供奉して鎌倉に下向した上杉重房です。
のち足利氏と婚姻関係をもち、三代目憲房のとき足利尊氏に忠節をつくして、伊豆・上野両国の守護となります。憲房の子憲顕のとき鎌倉府がおかれ、関東公方を足利義詮、実顕は執事(のち関東管領という)をつとめ、以後上杉氏は代々関東管領をつとめました。
憲顕は越後守護にも任じられ、憲実は越後守護房方の三男として、応永17(1410)年に生まれました。
応永25(1418)年、憲実は上杉氏の山内家を継ぎ、翌年頃に関東管領に任じられます。
上杉憲実がつかえたときの関東公方は足利持氏。持氏は将軍足利義教と対立し、永享の乱が起きます。憲実は対立を回避しようと持氏を諌めつづけましたがかなわず、最終的には義教の意にしたがって心ならずも持氏を死に至らしめることになりました。
このことが大きな傷になったようで、憲実はそののち周りの慰留をふりきって出家し、遁世しました。文安4(1447)年政界から引退。記録から一時姿を消します。
ついで記録に現れるのは長門国大寧寺においてで、寺伝によると宝徳4(1452)年に憲実は大寧寺に入ったとされます。
一説には大内氏が、憲実の関東管領としての実績と上杉氏の家格を利用しようとして積極的に招いたといいます。
憲実自身の言葉としては、師をもとめていて日本に居なければ中国まで行こうとしていたがついに師と仰ぐにたる竹居正猷に巡りあえたということらしいです。竹居正猷は名僧として記録されています。
竹居が亡くなったのは寛正2(1461)年のこと。或る日竹居は、わしは5日後に死ぬとみなに告げたので、伝え聞いて驚いた大内教弘が2日後に寺へかけつけますが、竹居はふだんとかわりません。教弘は下がって長棟(上杉憲実)のいる寓居で(数日滞在したか?)長棟と話していると、侍者がやってきて、自身が予言したとおりに竹居が死んだという話が残されています。
ちなみに上杉憲実と大内教弘のあいだでとりかわされた話は道話のようです。
なお憲実の愛読書は易経とのこと。もしかしたら大内氏について占って助言を与えているかもしれません。
大内教弘との交流がある上杉憲実。政弘にもなんらかの影響を与えているかもとおもってしまいます。
憲実は文正1(1466)年に逝去。政弘が応仁の乱で日本史上に登場する前年のことです。
参考文献:
「上杉憲実」(田辺久子著 吉川弘文館 平成12年刊)
「山口県史 史料編 中世1」(山口県 平成8年刊)