能の金春流の中興の祖といわれる金春禅竹は大内教弘のときに山口を訪れたといわれています。
その根拠となっているのが、禅竹があらわした「五音十体」という短い書物の奥書です。
「康正二年九月二日 金春氏信」
と本文の末尾に記され、
「此一帖、故禅竹西国下向之時、大内殿依御所望、俄書進之。相構了、不可有他見候也。
延徳弐年六月十五日 竹田金春八郎
泰元安」
と、さらに記されています。
この「五音十体」は康正2(1456)年に金春禅竹(氏信)が書きましたよ、ということと、これは今は亡き禅竹が西国へ下向したときに大内殿から頼まれて急遽書いてさしあげたものです、ということが記されています。
康正2年は、大内教弘の治世15年目にして、大内政弘満10歳のときです。禅竹は大内教弘によって招かれたものとおもわれます。
金春禅竹は応永12(1405)年生まれ。祖父金春権守、父弥三郎。
世阿弥の娘を妻とし、応永35(1428)年世阿弥より「六義」「拾玉得花」を相伝。
一条兼良の「申楽後証記」には音阿弥とならんで当代の名人と称されています。
主に奈良で活動。
能の「加茂」「鐘馗」「芭蕉」「楊貴妃」「雨月」「小塩」「小督」「千寿」「竜田」「玉葛」「定家」は禅竹作といわれています。
また連歌や和歌もたしなみ、禅竹があらわす能の理論書は連歌の理論書の影響を強く受けています。 禅竹は正徹に和歌を学んでおり、正徹の紹介で山口へ参ったかもしれないという推測があります。
応仁2(1468)年~文明3(1471)年の間に逝去。
康正2年は禅竹が満51歳のときで、すでに名人としての名声を確立していたときです。
大内教弘は当時最高の能役者を山口に招いて、その芸を堪能したということになります。
10歳で名人の芸に親しんだ大内政弘、なかなか良い環境ではないですか。
参照文献:
「金春禅竹研究」(伊藤正義著 赤尾照文堂 昭和45年刊)
「金春古傳書集成」(表章、伊藤正義校注 わんや書店 昭和44年刊)