宗長日記 島津忠夫校注 岩波文庫 1975年刊(下記の引用・参照は同書から)
宗長(そうちょう)は宗祇の高弟として活躍した連歌師です。
文安5(1448)年 駿河国島田に鍛冶職の息子として生まれました。
はじめ、今川義忠に仕えましたが、義忠の没後に京都へのぼり、一休のもとに参禅。宗祇に師事して連歌を修行。
文明12年に宗祇とともに山口にも来たことがあります。
文亀2(1502)年、師であり連歌界の巨匠であった宗祇が逝去。宗長は「宗祇終焉記」を書くばかりでなく、最晩年まで宗祇の年忌と月忌にしのぶ和歌を詠んでます。
その後、宗祇の種玉庵を継いだ宗碩と、宗長が連歌界の二大巨匠になります。(とはいえ「宗長日記」を読むかぎり、生活は楽ではなかったようです)
明応5(1496)年より今川氏の庇護をうけ、永正5(1504)年宇津山山麓に柴屋軒を結庵(現在の柴屋寺)。
享禄5(1532)年に亡くなるまで駿河と京都の間を往復していました。
この本には大永2(1522)年から大永7(1527)年までの日記と、享禄3(1530)年から享禄4(1531)年までの日記が収められています。宗長の晩年の日々です。
これを読むと連歌師の生活がわかります。連歌師は室町時代の花形文化人であり、出自階級にとらわれない、才能で世を渡れた世界です。あちこちの大名に呼ばれて全国を廻った旅人でもあります。
津の国の平尾から亀山へ行く途中、雲津川が洪水で足止めされました。そのときのことを書いた文章の中で、
「送りの人は皆かへり、むかへの人はきたりあはずして」(p16)
とあります。町から町へ、案内役が必ずいたようです。迎えの人がこないので困っていると、
「ある知人きゝつけて、此あたりのあしかる(足軽)をたのみ、窪田といふところ、二里送りとゞける。」(p16)
宗長の人脈の広さがうかがいしれます。
日記を読んでいると、宗長のもとにはあちこちから、連歌をするので発句を下さいと願いがあり、
「此所祝ばかりなり」(p38)
というありさま。人気ぶりがしれます。これが収入の一端ですので文句はいえないでしょう。
また、宗長の日記には、旅から旅へと動いているのであちこちの風景が記述されていて、当時の様子がうかがいしれます。
「宇治の川瀬の水車
此津より、宇治ばしまでさしのぼさするに、船の間、美豆の御牧・八幡山、木津河ながれ逢て、水ひろく湖水のごとし。京よりいざなはれくる人いざなはれくる人、船ばたをたゝきて、尺八・笛ふきならし、宇治の川瀬の水車何とうき世をめぐるなど、此比はやる小歌、興に乗じ侍り。岸の卯花汀の杜若咲あひておもしろかりし也。」(p38・39)
宇治橋まで舟で上っていると、京都からの舟がどんどんやってきて、みな尺八・笛を演奏し、歌を歌ってのどかに船遊びしているという内容です。楽しげな都人の有様です。これは今は埋め立てられて消滅した巨椋池の風景です。
途中で紹介されている小歌は、同時代に書かれた「閑吟集」にも収められてます。
「宇治の川瀬の水車 何とうき世をめぐるらう
◇古来有名な宇治の水車の無心にまわるのを見て、このうき世を何だと思って回っているのだろうかと、人生流転の感慨に寄せた一首。(「新訂 閑吟集」岩波文庫p69)
閑吟集の作者は不明で、宗長かもという論があるそうです。
さらに当時の京都の風景、
「京を見はたし侍れば、上下の家、むかしの十が一もなし。只民屋の耕作作業の躰、大裏は五月の麦の中、あさましとも、申にもあまりあるべし。」(p88)
京都では家の数が昔の十分の一になって、みんな自給自足のため畑仕事ばかりしている。京都御所は麦畑の中にみえる。といったところでしょうか。荒れた京都の様子が分かります。
日記を読んでいると、あの場所はいくさが始まったから避けて通ろうという記述がいくつかありました。
戦争があって日々の楽しみがあってと昔も今も変わらないといえば変わらない日本の生活がわかる面白い本です。
ときに大内義興は大永7年没。つまり日記に書かれている時代は大内氏では義興の晩年にあたり、大内氏が尼子氏と戦争を繰り広げ、中国大陸での寧波の乱にみられるように細川氏と日明貿易の主導権争いをしていたころです。
また享禄4年は、大内義隆が少弐氏を討つために九州へ出兵する前年にあたります。