老松堂日本行録 ―― 朝鮮使節の見た中世日本 ―― 宋希環
村井章介校注 岩波文庫 1987年
昔から旅行に出た人は、無事帰ってきたあと故郷で旅の先々での見聞を自慢話のように語ります。
また、故郷の人々も、未だ見ぬ土地の話を喜んで聞きたがります。
なぜなんでしょう? 人間が本来持っている好奇心、がいちばん納得のいく答えかもしれません。
旅行記も昔から多いのはそういうわけなんでしょう。
旅行の話は、とくに旅行記を読むと、異国であろうと自国であろうと、過去であろうと今であろうと、自分が住んでいる街の話でも、ひとしくワンダーランドとして感じてしまうのは、きっと他人の目を通した景色だからでしょう。
だから中世の、異国の人が書いた日本旅行記となると、「あたりまえ」として今も昔も等しく見がちな目のくもりをぬぐってくれ、新鮮な眼で日本が眺められます。
この本は、1420年(応永27)、日本でいうと将軍足利義持の時代の末期、山口でいうと大内盛見の時代(翌年教弘生まれる)に、朝鮮の漢城(ソウル)を出発して日本へ渡り、瀬戸内海を通って京都へ、そしてまた帰還した宋希環という使節の人が書き残した、旅を詠んだ漢詩集ともいうべき本です。漢詩の詞書にいろいろと当時の日本の情報が書かれていて、引用されることが多い本です。
京都への旅路でもっとも恐れられていたのが海賊です。瀬戸内海では舟が見えるたびに海賊ではないかと怯えています。海から見える浜辺の家々はみな海賊の家とまで書いてます。先年朝鮮からの使節が襲われてみぐるみはがされたとのこと。実際に海賊が現れたり、当時の瀬戸内の海賊たちの様子がくわしく書かれています。
また三毛作が行われていたり、遊女がおおかったりと、記録を残す階級の日本人なら書き残さないようなことが書かれてあるので異国の人の目というのは貴重です。
山口県では下関・室積・下松・上関・大島などがでてきます。
残念ながら大内氏の姿はどこにもみえません。どこで何をしていたのでしょう?
ともあれ当時の荒々しく、生々しい日本の姿が読み取れ、中世の息吹が感じられる本です。