一の坂川・パークロードエリア
大内政弘は1446(文安3)年に、築山館を建てた教弘の長男として生まれました。
1467(応仁元)年に始まった応仁の乱では、山名宗全に味方して大兵を率いて上京し、西軍の将として戦っています。1477(文明9)年に政弘は幕府と和解して帰国。戦乱で京都は焼野原になり多くの文化人が政弘を頼って山口を訪ずれるようになりました。
政弘は京でも武将として名を上げた半面、芸術文化にも大変な関心を示しています。京都に在陣の頃から和歌や連歌の道に親しみ、帰国後も宗祇を山口に招いて、築山館で連歌の会をたびたび催しています。家臣達もたしなみ、山口は文化都市として大いに栄えました。また、画僧雪舟も教弘、政弘の支援の下で技術を磨き、山水長巻などの水墨画の名作を完成させています。
1495(明応4)年9月、病により50歳で他界。菩提寺は法泉寺。当時の連歌師猪苗代兼載は政弘の墓に詣でて次のような歌を詠んでいます。
いたづらに吹くぞかなしきなき人も
かへらぬ野辺の葛のうら風
山口大神宮の前の道をのぼって、県庁のわきを抜け、五十鈴ダムをすぎると右手に公園めいた場所があります。そこに看板がたっており、山道をのぼること一分で墓がみえます。
かつてはここに法泉寺がありました。政弘の菩提寺です。
墓は木立に囲まれたなかで静かに佇んでいます。
所在地 | 〒753-0091 山口県山口市上宇野令 |
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