大内文化まちづくり~甦れ歴史空間~|山口県山口市

はじめての大内文化

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大内氏おおうちし殿とのさま列伝れつでん

大内氏おおうちし歴史れきし」を児童じどうのみなさんへ、わかりやすくおつたえします。

大内氏おおうちし先祖せんぞ  琳聖太子 ( りんしょうたいし )

画像:朝鮮半島南西部

大内氏おおうちし先祖せんぞは、 百済国 くだらこく (現在の 朝鮮半島南西部 ちょうせんはんとうなんせいぶ だい26だい 聖明王 せいめいおう だい 琳聖太子 ( りんしょうたいし ) われています。
琳聖太子 ( りんしょうたいし ) 西暦せいれき611ねん 周防国佐波郡多々良浜 すおうのくにさばぐんたたらはま 現在げんざい 防府市 ほうふし )に着岸ちゃくがんし、子孫しそん 正恒 まさつね が「 多々良 たたら 」というせいをもらいました。

16だい 盛房もりふさ

平安時代へいあんじだいになり16だい盛房もりふさ(12世紀後半せいきこうはん)のころ本拠地ほんきょちとしていたところが「大内おおうち」という地名ちめいだったので、それにちなんで「大内おおうちばれるようになりました。

そして周防国権介すおうのくにごんのすけとして次第しだい実力じつりょくばしていきました。

17だい 弘盛ひろもり

1180年、平重衡たいらのしげひらちによって東大寺とうだいじ焼失しょうしつしました。よく1181年、後白河法皇ごしらかわほうおうによって東大寺とうだいじ再建事業さいけんじぎょう開始かいしされることとなり、1186ねん周防国すおうのくに東大寺造営料国とうだいじぞうえいりょうこく東大寺再建とうだいじさいけん材料ざいりょう費用ひようをまかなうくに)となりました。

ところが、周防すおう国府こくふ役人やくにん地頭じとうしたがわわず、とく大内氏おおうちしは、重源上人ちょうげんじょうにん杣出そまだしし(用材ようざいし)を邪魔じゃまするなど、いろいろと東大寺とうだいじ命令めいれい反抗はんこうしていました。

24だい 弘世 ひろよ

画像:弘世

長門国 ながとのくに 守護しゅご 厚東 ことう 氏を討伐とうばつして、 周防 すおう 長門国 ながとのくに 守護しゅごに、 石見国 いわみのくに 南朝勢力なんちょうせいりょく駆逐くちくして、 石見国 いわみのくに 守護しゅごにんじられました。

じょじょに勢力せいりょく拡大かくだいしていった大内氏おおうちしは、周防国すおうのくにからほか勢力せいりょく退しりぞけていき、24だい弘世ひろよ(1325~1380)のとき防長ぼうちょう2カこく現在げんざい山口県やまぐちけん)の守護しゅご任命にんめいされました。

1363ねん弘世ひろよは2代将軍だいしょうぐん足利義詮あしかがよしあきらうためきょうのぼり、貿易ぼうえき数満貫すうまんかん銭貨せんか唐物からものみつものとして将軍しょうぐん貴族きぞくおくりました。

また、伝承でんしょうとして、「そのとき弘世ひろよきょう町並まちなみたか文化ぶんか感銘かんめいけ、山口やまぐち西にしきょうにしようとおもちました。いち坂川さかがわきょう鴨川かもがわにみたて、とおりに大路おおじ小路こじ名前なまえけ、きょう八坂神社やさかじんじゃ北野天神きたのてんじん勧進かんじんしてきょうのまちなみをまねしました。また、わらじきょうからつれてきてまちまわせて、山口やまぐち町人ちょうにん京言葉きょうことばをまねさせました。」というふうにいわれています。

あくまでも、物語ものがたりですから史実ちゅうじつかどうかはかりませんが、きょうにあこがれたという弘世ひろよ姿すがた想像そうぞうできます。

また、江戸時代えどじだい作成さくせいされたと言われる「山口古図やまぐちこず」には、大内氏おおうちしおさめていた時代じだいのまちのようすがえがかれています。こうした資料しりょうなどをもとに、「弘世ひろよは、本拠地ほんきょち大内おおうちから山口やまぐち龍福寺りゅうふくじあたりにうつした」とわれてきましたが、最近さいきん発掘調査はっくつちょうさ研究けんきゅうでは、見直みなおされつつあります。

25だい 義弘よしひろ

25代義弘だいよしひろ(1356~1399)の時代じだいになると、豊前ぶぜん和泉いずみ紀伊きい周防すおう長門ながと石見いわみの6カこく守護しゅごつとめ、朝鮮ちょうせんとの貿易ぼうえきはじめ、おおきなちからつようになり、3代将軍だいしょうぐん足利義満あしかがよしみつ信頼しんらいました。

しかしながら、足利義満あしかがよしみつ幕府ばくふちから絶対化ぜったいかはかろうとかんがえ、勢力せいりょくばしつつあった各国かっこく守護大名しゅごだいみょう勢力せいりょくおおきくなることを恐れて、これらのちからよわめようと思いました。

そこで義満よしみつ日本全国にほんぜんこく大名だいみょう北山きたやま山荘さんそう造営工事ぞうえいこうじいま鹿苑寺金閣舎利殿ろくおんじきんかくしゃりでんなどをてる工事こうじ)をめいじました。

このときただ一人ひとり大内義弘おおうちよしひろ拒否きょひしました。「武士ぶしはいくさを仕事しごととするものである。土木工事どぼくこうじにはせない」というのが理由りゆうでした。これ以降いこう将軍義満しょうぐんよしみつ義弘よしひろ関係かんけいはしだいにわるくなり、将軍義満しょうぐんよしみつの「きょうのぼれ」と命令めいれい無視むしつづけ、ついに、1399ねん足利幕府あしかがばくふ大内義弘おおうちよしひろあいだたたかいがはじまり、義弘よしひろさかい戦死せんししました(これを「応永おうえいらん」といます)。

幕府ばくふは、応永おうえいらんやぶれた大内義弘おおうちよしひろ獲得かくとくした領地りょうち没収ぼっしゅうし、防長二カ国ぼうちょうにかこくのみをおとうと弘茂ひろもちあたええました。

26だい 盛見    もりはる・もりみ・もりあきら

大内義弘おおうちよしひろ戦死せんししたあと義弘よしひろおとうとである、盛見もりはる(1377~1431)と弘茂ひろもち(?~1401)のあいだ相続争そうぞくあらそいがおこりました。幕府ばくふ弘茂ひろもち支持しじしましが、盛見もりはるあらそいに勝利しょうりし26代当主だいとうしゅとなり、幕府ばくふから周防すおう長門ながと豊前ぶぜん筑前ちくぜん守護しゅご任命にんめいされました。

また盛見もりはるは、兄義弘あによしひろとむらうため、香積寺こうじゃくじ現在げんざい瑠璃光寺るりこうじ)に五重塔ごじゅうのとうてることをめいじ、盛見もりはる死後しごの1442ねん完成かんせいしました。

27だい 持世もちよ、28だい 教弘のりひろ

教弘のりひろ幕府ばくふから遣明船けんみんせんを1つまかされることに。また、朝鮮ちょうせんからは正式せいしき貿易相手ぼうえきあいてだとみとめられ、貿易ぼうえき財力ざいりょくたかめます。朝鮮ちょうせんみんとの貿易ぼうえき領内りょうない経済けいざいゆたかになると、山口やまぐちにはおおくの文化人ぶんかじんあつまり、西にしきょうといわれるほどの文化ぶんかたかまりとにぎわいをみせました。教弘のりひろつくったとされる別邸べってい築山館つきやまやかたいま八坂神社やさかじんじゃあたり)をおとずれた連歌師れんかし宗祇そうぎは、やかた壮大そうだい様子ようすをたたえて「いけうみ深山みやまなつのこずかな」とみました。そのいま八坂神社やさかじんじゃ境内けいだいにあります。雪舟せっしゅう教弘のりひろが当主だった1450年代ねんだい山口やまぐちにやってきたとかんがえられています。

29だい 政弘まさひろ

1467ねん応仁元年おうにんがんねん)、足利将軍家あしかがしょうぐんけ跡継あとつ問題もんだいたんはっして、きょう戦場せんじょうとした応仁おうにん文明ぶんめいらんはじまりました。29代大内政弘だいおおうちまさひろ(1446~1495)は応仁おうにん文明ぶんめいらん西軍山名氏せいぐんやまなし味方みかたし、長門ながと周防すおうをはじめ石見いわみ現在げんざい島根県西部しまねけんせいぶ)・安芸あき備後びんご現在げんざい広島県ひろしまけん)・豊前ぶぜん筑前ちくぜん現在げんざい佐賀県さがけん長崎県ながさきけん)をおさめ、さらには勘合交易かんごうこうえき参加さんか貿易ぼうえき利益りえき独占どくせんしようとしました。

また、応仁おうにんらんによりきょうすたれてくにつれておおくのきょう公家くげ僧侶そうりょ各地かくち大名だいみょうたよってちのび、大内氏おおうちし本拠地ほんきょちである山口やまぐちにも文化人ぶんかじん身分みぶんたか人々ひとびと多数たすうやってきました。雪舟せっしゅうは1467ねん大内氏おおうちし派遣はけんした遣明船けんみんせん中国ちゅうごくにわたり、本場ほんば水墨画すいぼくがまなびました。帰国後きこくごおも雲谷庵うんこくあん滞在たいざいし、水墨画すいぼくが四季山水図しきさんすいず」をはじおおくの作品さくひん完成かんせいさせたと言われています。

30だい 義興よしおき

30代義興だいよしおき(1477~1528)は管領かんれい細川氏ほそかわし将軍職しょうぐんしょく追放ついほうされた10代将軍足利義稙だいしょうぐんあしかがよしたね(1466~1523)を保護ほごし、1508ねん上洛じょうらく将軍職しょうぐんしょく復帰ふっきさせてきょうやく11年間住ねんかんすみ、幕府ばくふ政治せいじ参加さんかしました。これにより日明貿易にちみんぼうえき権利けんりとそこからの利益りえき一挙いっきょ手中しゅちゅうおさめました。

しかし、ながきょうにいるあいだに、山口やまぐち政治せいじがおろそかになり、またまわりの大名だいみょう大内氏おおうちし領土りょうどもうとしていたので、山口やまぐちもどりました。その出雲いずも現在げんざい島根県しまねけん一部いちぶ)の尼子経久あまごつねひさとのたたかいの中、1528ねん病死びょうししました。

31だい 義隆よしたか

31だい大内義隆おおうち よしたか(1507~1551)は22さい家督かとく大内家当主おおうちけとうしゅとなりました。

当主とうしゅとなった義隆よしたかは、朝鮮貿易ちょうせんぼうえき経路けいろ確保かくほするため九州きゅうしゅう小弐氏しょうにし大友氏おおともしたたかい、勝利しょうりをおさめました。

次に、出雲いずも尼子晴久あまご はるひさたたかいましたが、大敗たいはい山口やまぐちかえりました。この敗戦はいせん大内義隆おおうち よしたか養嗣子ようししに、安芸・石見あき いわみ武将ぶしょうたちが裏切うらぎってしまいました。また、九州きゅうしゅうふたた小弐氏しょうにしたたかいの準備じゅんびととの大内氏おおうちしたたかいをいどもうとしていました。

このころ義隆よしたか朝廷ちょうてい献金けんきんして、1548年には従二位じゅにいう、戦国大名せんごくだいみょうなかでは一番高いちばんたか身分みぶんになり、8カこく勢力せいりょくをのばし、西日本最大にしにほんさいだい戦国大名せんごくだいみょうとなりました。フランシスコ・サビエルが、山口やまぐち布教ふきょう開始かいししたのも義隆よしたか時代じだいです。

しかし、山口やまぐち西にしきょうばれ大内文化おおうちぶんか花開はなひらいているその絶頂期ぜっちょうきである、1551ねん家臣かしん陶隆房すえ たかふさのち晴賢はるかた)が主人義隆しゅじん よしたかにたいしていくさをしかけ、やかたきょうからの使者ししゃ饗応中きょうおうちゅう義隆よしたかおそいました。義隆よしたかは、普段ふだんからいくさ準備じゅんびをしていなかったためたたかうことも出来できず、長門深川ながとふかわ禅宗寺院ぜんしゅうじいん大寧寺たいねいじげ、そこで自刃じじんしました。

32代 義長よしなが

陶隆房すえたかふさ豊後ぶんご現在げんざい大分県おおいたけん)の大友晴英おおとも はるひで大内義隆おおうち よしたかおい)を山口やまぐちむかえ、大内家おおうちけがせ、隆房たかふさ晴賢はるかた晴英はるひで義長よしながえ、大内家おおうちけのこそうとしましたが、厳島いつくしま合戦かっせん陶晴賢すえ はるかた毛利氏もうりしたれ、その2年後ねんごの1557ねん毛利元就もうりもとなり山口やまぐちめてきて義長よしなが自刃じじんし、大内氏おおうちし正統せいとうはほろんでしまいました。

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