「山口十境詩」は、今から約六百年前に山口にやって来た、趙秩という明人が作ったと云われる七言絶句の漢詩で、山口の十ヶ所の名所を詠みこんでいる。
その十ヶ所の題目を列記すれば
一 氷上滌暑
二 南明秋興
三 象山積雪
四 鰐石生雲
五 猿林暁月
六 清水晩鐘
七 長国晴風
八 虹橋跨水
九 梅峰飛瀑
十 温泉春色
以上である。
趙秩の山口入り
明の趙秩は「字を可庸、齧雪道人、官は洪武中、來州同知、詔を奉じて日本に使す」と諸橋大漢和辞典に書かれている。
この「日本に使す」というのは、応安(北朝)(1371)当時中国、朝鮮沿岸を荒し廻っていた海賊倭寇(わこう)の鎮圧の為に明国から日本へ使者としてやって来たことを意味する。
しかし、当時の日本は丁度南北争乱の渦中で、南朝では長慶天皇、北朝では後円融を擁した足利義満の時代である。
趙秩は、西政府へ使したとあるが、これは当時南朝方の菊池氏(熊本)が、後醍醐天皇の皇子懐良(かねなが)親王を征西将軍として戴いて九州太宰府に置いた政庁のことで、明の趙秩はこの懐良親王に倭寇の禁圧を請うたのである。
南朝方の太宰府征西府は、瀬戸内海の勿那海賊や村上海賊の助けを得て太宰府を占據、十二年間続いたのであったが、遂に北朝側の為に応安二年(1371)滅亡、懐良親王は菊池と共に熊本に退去してしまう。
運悪く、趙秩はこの渦中に日本へやって来たわけで、彼は朱本と共に博多に抑留されてしまう。
この抑留の中の趙秩、朱本を山口に招いたのが、大内弘世であった。
大内弘世は、初め南朝方であったが、ある年急に北朝方へ寝返ったことは「太平記」にも書かれている。
北朝方の太宰府攻略に加った弘世は、応安五年、全軍四千の兵を引き上げて帰る。多分このとき、趙秩も弘世に伴われて山口へ来たのであろうか。
「大内氏史研究」(御園生翁甫著)その他の本によれば、応安五年(1372)の冬、既に大内領内に居た趙秩らは、翌応安六年(1373)の春頃山口に来たと思われる。
大内弘世は、大内十七代の当主で、西の京といわれる山口の町造りをし、その衛門を長春城、西庁を日新軒と称して、現在の山口市大殿大路に館を構えた。弘世は、この日新軒に趙秩等を招じたといわれる。
春屋妙葩と趙秩
春屋妙葩(しゅんおくみょうは)は、南北朝時代の傑僧夢窓疎石の甥であり弟子である。
その経歴から見て、仲々の政治力のあった人らしく、足利義詮、義満の帰依を得て禅林の拡充に努めた人であるが、あるとき官僚細川頼之と相克があって、応安四年(1371)丹波の雲門寺に隠棲する。
丁度この時期、妙葩は趙秩のことを知って自分の弟子を何度も周防山口に使させて、趙秩と詩の応答をした。
その時の妙葩とその一門の弟子の詩に併せて趙秩、朱本の詩と序文(趙秩の文)が「雲門一曲」という詩集におさめられているのである。
鰐渓の別れ
応安六年(1373)の十月、妙葩の弟子梅岩昌霖は、妙葩の頼んだ趙秩、朱本の手になる塔銘と篆額(夢窓疎石の為の)をもって帰ることになる。
昌霖が山口を去るに臨んで、趙秩らは山口の町はづれの鰐石(椹野川にかゝる現鰐石橋のあたり)のたもとまで昌霖を送って別れの詩を賦した。
趙可庸(秩)(読み下し筆者)
鰐渓折柳 送君帰
柳色依依 露未晞
料想堂頭 相借間
為言弊尽 黒貂衣
(上平五微韻)
鰐渓に柳を折りて 君帰るを送る
柳色依々として 露未だ晞かず
料想す堂頭の 相借問すれば
為言弊れ尽す 黒貂の衣
○鰐渓は山口鰐石町の椹野川畔にある奇石「重ね岩」付近を云う。
(山口の古図には小さく重ね岩の形が描いてある。)
○折柳は中国古来からの別れの風習で、柳の枝を曲げて相手のたもとに入れて別れを惜しむ。
まげた柳の枝の柔軟性から元にかえるを「帰る」にかけて、早く帰って来て下さいの意にかけた。
(楊巨源(中唐)の詩「折楊柳」の中に唱われている。)
○黒貂衣は黒い貂の毛皮で作った皮衣で貴人の服。
(黒貂裘というが、それでは韻が合わないので黒貂衣としたのであろう。)
○料想―おしはかる。
○堂頭―住持、方丈。
○為言―いゝぐさ、口実。
(通釈)
鰐渓で柳を曲げてあなたを送ります。
柳の色はなごりを惜しむかのように露もまだかわかない。
あなたがお帰りになって方丈(妙葩)さんから聞かれたら、こう云って下さい。
私はもう万策つきて黒貂の衣服も破れてしまった。と。
象頭山と姫山に囲まれたこの一帯の川下は「出合い」と云って問田川と仁保川が合流する。
地形は低く、嘗ては氾濫の多かった所である。
当時のこのあたりを想像すれば、一面に湛えられた河水の合流地点として、川幅ももっと広かったのではないか。
江戸時代椹野川を上る川舟がこの鰐石のあたりまで来ていたという説もある。
椹野川に架かる鰐石橋(木橋)が出来たのは何時頃のことであろうか。
江戸初期に作られたとされる「山口古図」は大内時代の町割りを想像して描いていて、これには鰐石橋らしきものがあるが、信はおけない。
又「大内盛衰記」その他の戦記に鰐石川での合戦があるが、橋の記載はない。
多分趙秩が昌霖と別れた頃の椹野川は舟で渡っていたのではなかったか。
舟で去る梅岩昌霖を送って趙秩は鰐石のほとりで別れの柳を贈ったのであろうか。
今、鰐石の重ね岩はそのことを知ってか知らずか、巨体を静かに横たえている。
岩には注連縄が巻かれ、傍に石の灯籠がぽつんと立っている。
趙秩の時代から数百年、いや太古の昔からあるその姿は、現代の開発の波の中で若干寂しそうである。
鰐石生雲
趙秩はこの山口に滞在中に「山口十境詩」を作ったことになっている、その十境詩中に鰐石を唱った「鰐石生雲」という詩がある。
鰐石生雲
禹門点額 不成龍
玉立渓流 任激衝
自是烟霧 釣鰲処
幾重苔蘚 白雲封
禹門に点額して龍と成らず
渓流に玉立して激衝に任す
自ら是れ烟霧 鰲を釣る処
幾重の苔蘚 白雲を封ず
○禹門点額―禹は夏の始祖で、初め堯、舜に仕え、洪水を治めて功があった。
禹門は禹がほったもので一名龍門という。
龍門を登った魚は龍となるが、登れない魚は額に傷をつけて帰るという。
登龍門の名の起こりである。
○鰲―すっぽん
鼈は海中に棲息する想像上の大きなすっぽんで本当のすっぽんは鼈である。
鼈の間違いであろう。
しかし鰐石のあたりですっぽんを釣ったかどうか。
これは多分中国的である。
(通釈)
禹門を登れない魚は龍となれず、ひたいに傷をつけて帰る。
この鰐石の重ね岩は渓流の中に直立して流れのはげしさに任せている。
ここは霧が立ちこめて鼈を釣るに適した処である。
岩に幾重にもついている苔、そして白い雲は封じられたように動かない。
李白の詩に、「点額して龍と成らず、帰来するに凡魚を伴う」(贈崔侍御詩)というのがあり、詩と同じ禹門の故事をふまえている。
生雲は雲がわくということで、如何にも鰐石の風景を彷彿とさせる題名である。
末句の「幾重の苔蘚白雲を封ず」は水に映った空の雲をいうのであろうか。
弘世と趙秩
十境の境は、さかい、ばしょという意味があり、山口十境とは、山口の十の場所ということであろうか。
芭蕉の文に
かの瀟湘の八つのながめ、
西湖の十のさかいも涼風
一味のうちに思いためたり。
此あたり目に見ゆるものは
皆凉し
はせを
(笈日記、けうの昔曠野後集)
とあり、有名な西湖十景(中国浙江省、銭塘湖)のことを「十のさかい」と云っていることを思えば、境は景色の意ということであろうか。
随って山口十境は山口十景であり山口の十の景色の詩ということになる。
趙秩はこの山口滞在中に、問題の十境詩を作ったことになっているが、前記「鰐渓の別れの詩」は「雲門一曲」に収録されているのに、十境詩の方は入っていない。
河野通毅先生は山口市史(昭和四十六年刊)の中で
十境詩の出処については、不幸にして未だ明らかにするを得ない。
山口温故雑記という本の中に、「護法録」に出づとしてある。「護法録」という書名は二三あるが、恐らく明の宋濂の文集をさすのではないか。
と書いて居られる。
種々の歴史資料から、趙秩の来た1373年頃の山口を想像すれば、大内弘世が現在の大内地区から山口へ移転してから、まだ十年余りしか経っていない。
勿論五重塔も、香積寺(現瑠璃光寺)も国清寺(現洞春寺)のような大寺その他大内氏の有名な社寺もまだ出来ていない。
あったと考えられるのは、十詩に歌われた社寺以外には八坂神社(竪小路であるが現在地ではない)古熊神社(北野小路か)本国寺、今八幡宮位であろうか。
京の街にあこがれた弘世が葦の繁った山口の盆地に館をかまえて、一心に京都に模した町造りにはげむ最中ということであろうか。
一方趙秩、朱本らも十一月末に博多に移り、翌年(1374)明に帰ってしまうのである。
この新興都市山口に、趙秩は何を思って大内弘世の招きに応じたのであろうか。
折角倭寇の鎮圧を頼みに来た相手の南朝方は太宰府を退却して頼みの綱は切れたので、この上は、北朝側の足利幕府へ頼もうと、大内氏を頼ったのであろうが、しかし、大内弘世はそれに応じなかった。
少くとも、趙秩らを京都に送ることはしなかった。
大内弘世が趙秩らを山口に招いたのは、詩文愛好から出たことと云うが、果たしてそれ丈であろうか。
正平十九年(1364)九州で惨敗した弘世は、何くわぬ顔で、多くの舶戴品を土産として京都へ乗りこんで京人を驚かせた(太平記)程の大胆で深謀な政治力の持主である。
趙秩、朱本を山口に留め置いたには、それなりの政治的打算がなかったとは云えない。
(例えば対明貿易への野心とか……。)
しかし趙秩らは徒らに数ヶ月を山口に過ごした丈であった。
(後れて来日した別働の仲猷、無逸らは単独で上京、幕府へ使名を通じた。)
大内氏と海賊、倭寇、南朝、北朝、足利幕府、そして大内内部の内紛、これらの複雑な力関係がからみ合うこの時期の弘世にとって、明使の存在が、政治の切り札となるべき機会は、まだ到来していなかったべきだとみるべきであろうか。
もう一つは、春屋妙葩の隠遁である。
趙秩は、これにも望みをかけていたと思われるが、妙葩の一時政界引退というこの時期は彼にチャンスを與えなかったということであろう。
悶々のうちに過した半年余りの山口滞在ではなかったであろうか。
その気持ちを伝えるものとして、私は、梅岩昌霖に送った前記「鰐渓に別れる詩」を押したい。
依言弊れ盡す黒貂の衣
とは、万策尽きた趙秩の心境と見たいのであるが、私の読みすぎであろうか。
この十境詩が趙秩の作だとすれば、それは多分、大内弘世に頼まれたか、その意をくんで作ったものであろう。
又、当時山口にいた敦庵周厚とか玉林昌旒(どちらも妙葩の弟子)などとの詩の応酬のなかで出来たものかもしれない。
趙孟頫と趙秩
趙秩は宋の名家天台の松雪翁の孫であると雪門一曲中にある。
松雪とは趙孟頫のことである。
孟頫(1252~1322)は字を子昂、号を松雪と云い宋朝の宋室の子孫であるが、元朝に仕えてその節操を非難された人である。
書画の復古運動を興した人で、日本でも朝鮮でも大きな影響を受けた。
又その妻、管道昇も書画で有名であり、二人の逸話は幸田露伴の「幽情記」「泥人」に書かれている。
趙夫妻には趙擁、趙奕の二人の子があり、趙秩はそのどちらの子であろうか。
「雲門一曲」には、趙秩を「趙子昂(松雪)之孫」とだけ書いてある。
雨無情
雲門一曲の内容は、主に1373年春、つまり趙秩らが山口へ来た頃から、同年秋十月山口を去って1374年博多を帰国出航するまでの間の、春屋妙葩とその弟子との詩の交流が書かれている。
今その全貌を紹介する余裕はないが、大内館日新軒に落ちついた頃の趙秩、朱本の詩を見れば、
天地悠々一定僧
(朱本)
とか、
日新軒館塵蒸を脱す。
漢節堅持して高義在り。
(趙秩)
という句があって、両人の希望(上京して倭寇の禁圧を願うこと)に燃えている感慨がよく判るようである。
しかし、それが同年十月、先に書いた鰐渓の別れの頃になると、詩の調子は次第に沈痛となり鬱情さを帯びてくる。
その中で、趙秩にとってせめてもの慰めとなったのは、梅岩昌霖との応答であろう。
趙秩はそのことについて、
連床夜話。情意綢繆。
の語をもって二人の交情を表している。
趙秩は別号を鰐水とする程鰐渓(現山口市鰐石あたり)を愛し、それを歌った詩が多いが、その中の一節を紹介すると、(読み下し筆者)
関西昌霖
邂逅相い逢う鰐水頭
青燈多夜清遊を共にす
四明朱本
三年節を持す石城頭
偶ま周防に到り勝遊を得る
趙可庸
鰐渓に別れを送り
空しく惆悵す
我れ亦た南へ帰る萬里の舟。
応安七年(1374)の春三月の博多は、冷たく無情の雨が降っている。
客館のそばの紫陽花は、我が心を知ってか開かない…私は只空しく帰るのみである。
(読み下し筆者)
青●(せいそう=あをうま)●蝶(ちょうちょう)紫陽の隈(くま)
帰去するや丹丘後命を催す
安阜に独り山月落つるを看
長門猶洛人来るを阻む
無情久しき雨に春多冷
意有や閑花涼未だ開かず
堂頭に趨侍して安好を問わん
道余遇わず只空しく回(かえ)る
妙葩の弟子文渓が雲門寺へ帰るのに餞けたこの詩は、間もなく日本を去る趙秩の萬感の恨みがこもっているようである。
付記
山口博物館に趙秩筆と伝える「寿老花鳥図三幅対」の軸があり、中の寿老の賛に「辛己之春鴻城客舎に於て落水園主人百歳を寿ぎ以て写す」とある。
辛巳の年は1401年で趙秩が山口に来たのは1372(壬子)1373年(癸丑)なので干支と年号が合わない。
どうしたことであろう。
引用書
雲門一曲(京都鹿王院文庫・昭和十七年発行)
参考書
○大内氏研究・御薗生翁甫
○山口市史中十境詩・河野通毅
○趣味の山口
(『山口十境詩余話 鰐渓の詩』金本利雄 ・・・山口の文化財を守る会発行「ふるさと山口第16号」より)