大内文化まちづくりサポーターでは、平成18年度の事業として、紙芝居「五重塔はかくして残った」を制作し、アートふる山口にて公演を行いました。
ここではその紙芝居を簡単な文章とともに紹介します。
①表紙
②1557年(弘治3年)3月、鴻嶺城に毛利氏・吉見氏の軍を迎え撃った大内氏だが、武運つたなく、大内家最後の当主義長は長府の長福寺(現・功山寺)で自刃。
ここに、戦国時代の一時期を制した西国最大の大名・大内氏の歴史に幕が下りた。
③現在の瑠璃光寺がある場所に立っていた香積寺は、慶長9年(1604)年、毛利氏が萩に居城を設けた際、解体され萩に移された。
そして、五重塔も移されることになった。
④そんなある晩、激しく半鐘が鳴った。このところ不審火が続いていた。
見れば大きな炎が移動していく。
目を凝らすと、それは紅蓮の炎に包まれた鬼の姿であった。
⑤鬼との戦い。だが矢は炎で焼き尽くされ、火縄銃の弾は鬼の体で跳ね返され、なすすべがない。
鬼は五重塔に迫ろうとしていた。
⑥そのとき火消しに来ていた町人たちが、鬼の前にひれ伏して言った。
「山口の誇りである五重塔を焼かないでください!」
⑦すると鬼は鎧武者の姿に変わり、涙を流しながら、
「拙者は大内氏の家臣某の霊である。五重塔が移されると聞いて無念でたまらない。この塔はこの町の象徴であり、大内殿だけでなく山口の町人らの栄えた証ではないか。この塔は山口にあるから美しいのだ。よそに移ってしまっては何の価値もない。それならば拙者の手で焼いてしまおうと思う」
⑧人々は塔を残すことを約束し、武者をなだめた。武者の霊は青い炎に包まれて天に昇っていった。
町人たちは町中の者の署名を集め奉行所に提出した。
⑨受け取った町奉行・熊野汎衛門は頭を抱えた。
「気持ちはよくわかるが、町奉行が殿様に直訴するなど、とうてい許されぬこと。どうしたものか・・・」
その時、奉行所の役人・小椋素兵衛、山本助三郎、鯨田格之新の三人が名乗り出た。
「町の人々が心平らかに生活できるよう守るのが我ら役人の務め。町のために五重塔が必要とあらば命をかけても守りましょう」
と言い、三人は嘆願書を持って萩城へ赴いた。
⑩三人は毛利輝元に謁見をたまわった。
輝元は願いを聞き入れ、かくして五重塔は山口に残されることになったのである。