弘幸
弘幸の時代はたまたま建武の政変に当たったが、それに先立つ元弘の討幕に対して弘幸は、長門探題北条時直支配力によってか、北条方に味方して軍を動かした。このため建武中興に当たって弘幸はうとまれたようで、周防守護には、天皇に味方して長門探題を討った叔父の鷲頭長弘が命じられた。
弘直
建武中興も足利尊氏の謀反により再び争乱の世となるに至ったが、弘幸は建武二年十二月、款を足利方に通じた。ところが、弘幸の弟弘直は天皇側に味方し、新田義貞に従って関東に兵をすすめ、足利勢と戦った。
しかし戦利あらず、国に帰って再挙を企てていたが、尊氏の西下に際し、益田大山に敵軍にかこまれ戦死した。時に延元元年(1336)7月7日であった。山口白石の瑞雲寺に葬った。瑞雲寺は今の普門寺の地にあり、後に竜福寺と改称された。
主流と庶流の対立
鷲頭長弘は機を見るに敏で、足利氏に協力し、尊氏から周防守護に任ぜられたが、弘幸は大内氏嫡流として、庶流で守護となった長弘と対立していたらしい。暦応四年(1341)に大内氏の氏寺氷上山興隆寺が消失したが、これは長弘等のなした仕業であるといわれている。
弘幸と長弘の対立は、それぞれの子息弘世、貞弘の時代になっても持越された。弘幸、弘世父子は貞永六年(1350)鷲頭氏の勢力を滅ぼそうと数万人の軍勢を催して、東大寺領吉敷郡椹野庄に乱入し、南朝に帰順の挙動を示した。
正平六年(1351)七月に後醍醐天皇の皇子常陸親王が周防に下られ、義兵をつのられた。この際弘幸父子ははっきり宮方に帰順して、大内介弘世は南朝から守護に補せられた。これにより周防国には南北朝両守護が対立する形となった。そこで正平七年二月、弘世は鷲頭庄に入り、北軍の貞弘を攻めた。
弘幸は大内村の仁平寺本堂を修造し、その供養介を前にし、正平七年(1352)三月六日に死去した。このため供養会は嫡子弘世が行った。弘幸は上宇野令古熊山の永福寺に葬られた。
弘世
弘世は弘幸の死後、鷲頭氏を打ちほろぼそうとする意思をついで、熊毛郡・都濃郡に出兵し、鷲頭氏と度度争った。当時鷲頭氏は北朝方の周防守護であった長弘及びその長男弘員は死去していて、次男の弘直が守護に補せられており、その弟貞弘が代官として戦ったもののようである。鷲頭氏の勢力を抑えた弘世は、ついで西方の豪族豊田氏を下した。
一方尊氏の庶長子であった足利直冬は長門探題として赴任していたが、七年十一月に至り、南朝に帰順し、大内弘世と和して勢力を増大するため、弘世をして氷上山興隆寺を祈願所となすことを同寺に達せしめた。この年真冬の仲介によるものか、大内氏と鷲頭氏との争いは和睦し、主権は宗家の弘世の手に戻ったようである。
正平九年(1354)には北朝から伊予の河野通治が周防守護に補せられたが、周防の国は南朝の守護弘世の手中に帰していたので、到底弘世の敵ではなかった。