義興
政弘の後を継いだ子義興も初世から戦乱にあけくれる年月がつづいた。家督を相続した翌年明応五年(1496)には山口に帰った。しかし部下はなお九州に留り、少弐の軍に当っていた。
義興は帰山後その戦勝祈願のため四月十六日、周防の五社に参詣した。この五社というのは右田の玉祖神社、佐波の出雲神社、宮野の仁壁神社、吉敷の赤田神社、朝田の朝田神社である。
明応八年大内の重臣杉武明が中心となり、義興を廃して、その弟僧尊光を還俗させ、隆弘として擁立し、自ら政権を握ろうと謀った。しかし事あらわれて武明は自殺し、隆弘は大友氏を頼って豊後に走った。
幕政掌握
明応九年(1500)将軍足利義植は、細川政元を討伐しようとして却って敗れ、来って大内氏に寄った。義興はこれを今八幡宮の宮司坊である神光寺に請じてその居館とした。
永正四年(1507)六月、細川政元はその家人によって殺され、京都が擾乱しているとの報が山口に至ったので、義興は義稙を奉じて、山口を発し京都に入った。政元の子澄元はこれを向へ討ったが敗走し、将軍義澄も近江に出奔した。
そこで五年七月義稙は改めて将軍の職に復し、義興は管領代に補せられた。大内氏は足利氏の一族ではないので、管領職には就けなかったから、管領代となり、山城守護もかねたのである。義興が管領の立場で京都において幕政を左右したのは十一ヵ年間であった。
応仁の乱後、世は戦国争乱の巷となったが、その間やや平和の時代として見られるのはこの十一ヵ年のみであった。それで義興が帰国しようとしたとき、天皇や将軍が極力帰国を慰留したのはもっともなことである。しかし永正十五年(1518)八月、義興は職を辞し、十月山口に帰った。
義興は敬神の念が深く、在京中伊勢皇太神宮に参詣したこともあるが、帰国後すぐ皇太神宮を勧請する計画を樹て永正十五年から十七年にかけて、山口高嶺の麓に社を造営し伊勢内宮外宮を勧請した。
大永二年(1522)出雲の尼子経久が安芸を犯し、友田興藤も大内氏に叛したので、軍を出し安芸備後に戦わしたが、四年六月に至り、義興は子義隆と共に安芸に出陣し、興藤を降した。
義興の大陸交易
義興は朝鮮との交易も盛んに行った。明応六年(1497)初めて使者を朝鮮に遣わしてから享禄元年(1518)七月最後の派遣まで三十年間に十一回に及んでいる。
一方対明貿易については、大内氏は瀬戸内海の西部から北九州にかけての制海権を握り、細川氏と対抗していた。しかし細川氏は幕府の内部に勢力を有していたので、大内氏は実力はありながら細川氏に圧され気味であった。殊に勘合符の争奪については容易ならぬ競争をした。
しかし永正九年(1512)義興が義植を擁して上洛し管領代になると、形勢は逆転し、幕府の実権も義興の手中に帰し、永正十三年四月には、今後遣明船のことはあげて大内氏に一任するという将軍の内書を得た。これにより次の義隆の時代に入り天文八年(1539)同十六年(1547)の遣明船は大内氏が独占するに至った。
義興安芸平定後は厳島の対岸門山に仮城をたてここを本営としていたが、病になったので帰国し、山口で死去した。義興の一生は西の少弐政資との戦いに始まり、東の尼子経久との戦いに終る。文字通り戦陣に明け、戦陣に暮れる毎日であった。
義興は典型的な戦国武将であったが、また文人的半面があり、和歌をよくし天皇や公卿から賞讃されたこともあり、連歌では宗祇の弟子宗碩を招いてその道をたしなみ、また古今の伝授を受けたりなどした。義興は死す時享年五十二才、遺骸は吉敷中尾の凌雲寺に葬られた。
義隆家督相続
義隆は義興の長子である。防・長・芸・備・石・豊・筑七州の守護となり、位は従二位に進み、官は太宰大弐・兵部卿・持従を兼ねた。大内氏は義隆の時代となって、その権力は天下にならぶべきものが無い程であった。
享禄三年(1530)の秋、少弐資元は旧領の回復を図り、肥前の諸族に呼びかけ、また大友氏と結んで大内氏に抗した。よって義隆は天文元年(1532)自ら兵をひきいて長府に陣し、肥前・筑前に兵を進めた。天文三年(1534)十月資元は降り、北九州は平らいだので、義隆は長府から帰山した。この年使を朝鮮に遣し、五経正義などを求めたりした。
これより先大永六年(1526)後奈良天皇践祚されたが、連年の兵乱で諸国からの貢献も殆どないありさまであったので、即位の大礼も行われなかった。義隆はこれを歎き、天正三年(1534)奏してその費を進献した。これにより天皇は大礼の式を挙行されたが、義隆はその功により、太宰大弐を授けられ、昇殿を許された。
天文八年正月、義隆は正四位に叙せられた。この年の三月香積寺に命じて開板させた三韻一覧が成ったので、義隆は自らその跋文を書いた。翌年出雲の尼子晴久を討ち、十年には安芸の友田興藤を亡ぼした。
天文十一年(1542)義隆父子は兵を率い、出雲月山城の尼子晴久を攻めたが、かえってその逆襲にあい、大敗して山口に逃げ帰った。この時義隆の長子義房は、敗走中の船が覆り溺死した。
義隆の文人的生活
義隆は敗戦があまりに深刻だったためか、その後はほとんど武事をかえり見ず、寧ろ文人的生活にふけるようになった。そのため武断派と対立を生じ、これが一家滅亡を招く遠因をなした。後半生の義隆は京都貴族の風向を尊び、奢侈の生活にふけり、学問・芸能を事とした。
これより先天文八年(1539)には遣明船が明国から還って来たが、義隆は彼の国の珍器をあつめ、茶飯の餐と称する宴を設け、船主を餐し、山口に住している明人の通事等に会話を学んだりしたと伝えられる。この頃、山口の地はいよいよ繁華となり、そのにぎわいは京都にも優る程であった。
此所には明・朝鮮及び声域の商買を来て交易売買し、当時としては珍器と驚かれた時計、楽器、眼鏡などをもたらしたりなどした。山口竪小路の西側、水の上に、その頃唐人小路の名があったのはこれら明人の住居していたところと考えられる。
当時下克上の世の中で、群雄兵革を事とするうちにあって、山口の地のみは一時平和を保ち、いわゆる「西の都」をしての繁栄があった。そのため戦乱の京都をさけて山口に来る公卿文人は歌道・有職・管紘・郢曲・装束・儒者など、その道の専門の人々でその数もたいへん多くであった。
義隆の好学
義隆は学問を好み天文十五年(1546)には柳原大納言資定、持明院衛門督基規、竹田法眼定慶等と経書を輪講し、疑義を清原頼賢、小槻伊治に質するなどの事を催した。これより先義隆は近習、小座敷の者に四書五経を講釈し、また大金を出して四書五経諺解を写したりした。さらに明国に紙を送って諸種の書類を印刷させるほか山口においても復刻し、開板した書籍も多くあった。世にこれを大内版といっている。
天文十八年三月、安芸の毛利元就は山口に来て義隆に謁した。義隆は大いにこれを喜び、度々席をもうけて元就を餐した。
十九年ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルは京都に向う途中、山口に寄り義隆に面会した。そして一ヶ月余り山口の辻々に立ち布教に従事したが、京都に上って天皇に布教の許可を得るために東上した。しかし京都は応仁の大乱後で市街は荒廃しており、京都での布教の効果もなさそうに思えたので、天皇に謁見をせぬまま京を離れ九州平戸に帰った。そして再び山口を訪れ、義隆に種々の珍奇な土産物を献じ、キリスト教布教の許可を願った。よって義隆はその好意を謝し、宿舎兼説教所として一つの寺院を与え、正式に布教を許可した。ザビエルはこの後約半ヵ年間山口に在って布教に従事した。