生きていた亀山
サビエル教会や毛利敬親公之像がある山を亀山といいます。
むかしむかし、その山は生きていました。
亀山の上に城があり、敵が攻めてきたときは山が高くなって城の防御を助け、敵が退却するときは山が低くなって追撃を助けたといいます。
あるとき交通の便をよくするために城の人たちが首の部分を掘りました。
すると掘ったところから血が吹き出てきました。
かわいそうに亀山は七昼夜鳴きつづけたのち亡くなってしまいました。
それからというもの山は敵が攻めてきても動くことなく、ほどなくして城は落ちました。
県立博物館の裏手の春日山は、むかし亀山の頭の部分だったといいます。
また、亀山と春日山とのあいだにある、まこもヶ池は、そのとき掘られた場所で、血がたまってできた池といいます。
湯田温泉の発見
むかしむかし、大内義興が山口を治めていた(1495年~1527年)ときのことです。
権現山という山の南南西の方角に寺がありました。
その寺の庭には松の木がありました。
その松の下に小さな池がありました。
ある夜のことです、庭で水を掻く音がするので、不思議におもった僧がそーっと池の方をのぞいてみると、一匹の老狐が池に足を浸していました。
遠くからみても、その足は痛めていることが分かりました。
かわいそうにおもった僧は追いはらうこともせず、そのままにしておきました。
けっきょく狐は一晩中そこから動かず、朝になって去っていきました。
つぎの夜もその狐は池にきて足を浸したまま朝までそこにいました。
つぎの夜も、そのつぎの夜も、そのまたつぎの夜も狐はやってきました。
そして七日すぎたところで、ふっつりと来なくなりました。
心配になった僧が狐を探してみると、権現山にすみかがありました。
権現山は熊野権現が勧請されています。
さては狐は権現様のお使いだったのかと僧はおもいました。
寺にもどって、池に手をつけてみると、これがほんのり温かい。
池を掘ればますます水は温かくなり、ついに温泉の湯がでるようになりました。
そのとき土の中から黄金の薬師如来像が出てきました。
大喜びした僧は、温泉の上に屋室をつけ、かたわらに堂をかまえて薬師如来像を安置しました。
これが湯田温泉のはじまりです。