金春禅竹が山口に来た康正2(1456)年に、大内教弘より招かれたけれども高齢を理由に断ったのが正徹です。
正徹が残した歌集「草根集」に収録された和歌の詞書きにそのことが書かれています。
大内教弘より手紙が来ていうことには、西国物詣に来ませんか、それによって歌道を庭訓にくわえたいから、と。
康正2年3、4月の頃の話です。
では正徹とはどういった人なのでしょうか。
正徹は永徳元(1381)年、現在の岡山県矢掛町で生まれました(地元では「正徹を顕彰する会」が設立されて顕彰に努められています)。小田庄神戸山城主小松康清(又は秀清)の次男と伝えられています。
冷泉為尹・今川了俊と出会い、教えを受けます。応永21年出家し東福寺に入り、書記をつとめます。やがて冷泉派の歌人として大成。足利義教の忌諱に触れ、勅撰和歌集に選ばれないなどの不遇の時代もありましたが、晩年は歌壇の重鎮として並ぶものなき存在となりました。弟子に正広、心敬、宗砌、知蘊などがいて、連歌にも強い影響を与えました。
こういう大物を大内教弘は呼ぼうとしたのです。
正徹が亡くなったのは長禄3(1459)年。
亡くなる3年前に誘われたのですから(当時75歳)高齢を理由に断られるのも仕方ないかもしれません。
能楽史に燦然と名を残す金春禅竹とならんで和歌の大御所・正徹も山口に来ていたら、この康正2年という年は山口にとって晴れやかな年として記憶されたことでしょう。
参照文献:
「国史大辞典」(吉川弘文館 昭和61年刊)
「新編国歌大観第八巻私家集編Ⅳ」(角川書店 平成2年)
「金春禅竹研究」(伊藤正義著 赤尾照文堂 昭和45年刊)