越前・尾張・遠江の三国の守護大名であった斯波義敏は永享7(1435)年生まれ。永正5(1508)年逝去。
応仁の乱の原因の一つである斯波家の家督争いの主人公です。
庶流の生まれですが、宗家の斯波義健が早死したため、享徳元(1452)年に斯波家の家督を継ぎ、越前・尾張・遠江の三国の守護になりました。
斯波家は、将軍を補佐する管領を担う三家(斯波・畠山・細川)の一つでしたが、義敏のときに家督争いが生じ、弱体化していきます。
そこに至るまでの経緯は複雑なものがありますが、まず越前・遠江国守護代の甲斐常治と実権争いが深刻化し、戦争にまでなりました。このとき義敏は、足利成氏討伐の軍勢をつかって甲斐討伐を行ったため将軍足利義政の怒りを買い、家督を子の松王丸に譲らされ、遠く周防国の大内氏のもとまで落ちのびることになります。
長禄3(1459)年、斯波義敏が山口に来たとき義敏は満24歳。大内政弘は満13歳。
この年、山口の町では5月22日に、壁書で、夜中大路の往来・辻相撲・夜中湯田の湯に入ることなどが禁じられました。壁書は、大内教弘の代ではこれが初めて出されたものになります。
また、この年は山口祇園祭が始まった年でもあります。
長禄3年という年は、干ばつのため諸国で作物が不作であり、のちの寛正の大飢饉(1461年)の始まりの年でした。祇園祭は疫病除けの祭りであることをおもえば、そういう天変地異が祭りに関係しているのかもしれません。
そういう中で8月頃に斯波義敏が来ました。どうして大内氏を頼ることになったかは不明です。
この頃の大内氏のもとには雪舟がいて元関東管領上杉憲実がいて、これに斯波義敏がくわわり、日本史上に残る顔ぶれが重なっていて、賑やかな印象があります。
寛正6(1465)年に上洛するまで斯波義敏は大内氏のもとにいました。
上洛したのは伊勢貞親のとりなしで足利義政に赦免されたからで、ほどなく家督を取り戻し、守護に復帰しました。
このことに、義敏にかわってそれまで斯波家を継いでいた斯波義廉が反抗に出、すぐに義敏は解任されることになりました。この家督争いが応仁の乱の一因となり、義敏は細川氏のもとにはしり応仁の乱では東軍に、斯波義廉は大内氏と同じ西軍に属して、戦うことになりました。
東陣西陣に分かれて対峙する大内政弘と斯波義敏は、どういう思いでいたのでしょう。うらで繋がっていたりして、とか想像してしまいます。
斯波家の家督争いは、家臣の台頭を増長させ、越前守護代を朝倉氏、尾張守護代を織田氏、遠江守護代を甲斐氏が務め、それぞれが戦国大名に成長するなか、斯波家は織田信長に滅ぼされることになります。
斯波義敏は文明14(1484)年出家。「新撰菟玖波集」に連歌七首が選ばれています。