大内文化まちづくり~甦れ歴史空間~|山口県山口市

大内教弘・政弘に和歌を教えた正広

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 正広しょうこうは応永19(1412)年生まれ。明応3(1494)逝去。大内教弘の9歳上。

 正広は正徹の弟子です。正徹の没後に師匠の招月庵を継ぎ、正徹の和歌をまとめ「草根集」を編纂するなど、正徹の忠実な後継者として活躍します。

 自身のものとしては膨大な和歌をおさめた「松下集」があり、和歌の詞書から京都だけでなく各地の武家・公家・地下と交流があったことがわかります。当代の人気歌僧といったところでしょうか。

 「松下集」の和歌の詞書をみると、寛正5(1464)年2月中旬頃に大内教弘より、箱崎の松を見にきませんかと誘われて山口に来ます。政弘が満18歳のときです。そして9月下旬に都へ戻るまでに、大内氏領国ですごしたさいに作られたもののうち150首近くの歌が歌集に収められています。

 まず3月27日に正広は山口真光院(興隆寺の塔頭)に落ち着きます。

 さっそく「左京兆家にて」「子息新介政弘の家にて」と教弘と政弘の家で歌会をしています。左京兆家(教弘の家)では庭の句をよく詠んでます。現在大内氏館跡で復元がすすんでいる2つの庭とは時期的に異なるようなので他にも庭があったのでしょう。

 さて、4月下旬に山口から大内氏領国を巡る旅にで、途上さまざまな場所で歌を詠んでます。長門二宮、赤間関阿弥陀時、宇佐神宮、箱崎八幡宮、太宰府などなど。

 6月末に山口に戻ったあと、7月15日に草庵をたて、心月庵と名づけてます。どこにあったかは不明です。

 その頃の歌に今八幡宮、善福寺、周防三宮(仁壁神社)、水上の名が詞書にみえます。

 そして9月末に都へ戻っています。

 大内政弘は個人和歌集「拾塵和歌集」を残したほどの歌詠みの名手ですが、そのなかで最も若い頃に作った歌とはっきり分かるのがこの寛正5年に作った歌です。春頃に父教弘や正広とともに、大内義弘が足利義満を迎えた「高洲の松原」(現防府市)という旧跡を訪れ、そのさいに義弘の昔をおもって詠んだ歌です。すでに歌詠みとしてなかなかの腕前だったことがわかる歌です。

 正広が半年も山口に滞在したことは、当地の文化に多大な影響を与えたことでしょう。

 参考資料:「新編国歌大観第八巻 私家集編Ⅳ」(角川書店 平成2年刊)

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