大内氏が活躍した時代の書物が、現代でも手軽に入手でき、読むことができます。
古文は苦手といわれず、読まれて、室町時代にタイムスリップするのはいかがでしょうか。
室町時代の文章は、平安時代よりかなり現代語に近くて労せず読むことができます。
今回取り上げる書物は・・・
中世なぞなぞ集 鈴木棠三編 岩波文庫 1985年刊 (下記の引用、参照はすべて同書からのもの)
室町時代から江戸時代へかけてのなぞなぞを集めた本です。
なぞなぞというと一昔前はこどもがするもので、「上は洪水、下は大火事」(答 風呂)「食べられないパン」など友達同士でだしあって遊んだ経験がある人は多いのでは?
最近はテレビ番組で頭脳訓練めいたなぞなぞ出題番組が増えて、大人もするものと認識が変わってきました。
なぞなぞ遊びは、記録文献上では、もともと天皇を中心とした貴族の遊びでした。もとは風流優雅な遊びだったのです。
この本には室町時代に作成されたなぞなぞを収めた書が2つ紹介されています。いずれも関係者は公卿です。
なお、室町時代のなぞなぞは、「~、これは何」という2段立てのなぞなぞが主流です。(「~とかけて~ととく、その心は」という3段立てクイズは江戸時代から)
◎「なそたて」
巻末の花押によると永正13(1516)年正月廿日とあるからその年に成立したようです。
194問が収録されています。
のちの後奈良天皇が皇子のときに書き記したとされていますが、その父の後柏原天皇かもしれないという意見もあるそうです。
ではまず、第1問。
雪ハしたよりとけて水のうへそふ」(p10)
雪は、下より溶けて、水の上に添う。これな~んだ。
答えは弓。
「ゆき」→「ゆき」の下がとける→「き」をのぞく→「ゆ」
「みず」のうえ→「み」
「み」を添える→「ゆ」+「み」=ゆみ=弓
当時はなぞなぞといえばこういう言葉遊びをいいました。
作者は後柏原天皇の父・後土御門天皇か。
第2問
「梅の木をみづにたてかへよ」(p19)
木偏を水偏(さんずい)にかえて海。答えは「海」。
これは文明13年5月5日の中御門宣胤の日記にも掲載。
第3問
「野中のゆき」(p48)
のなかのゆき、これな~んだ。
答え 柚の木(ゆのき)
「の」を「ゆき」の中にいれて「ゆ・の・き・」=柚の木
第4問
「うみのみち十里にたらず」(p60)
海の路十里に足らず、これな~んだ。
答え 蛤。
海の路=浜
十里に足りない=九里
浜・九里=はまぐり=蛤
第5問
「ふるてんぐ」(p46)
これな~んだ。
ふる=古
天狗=魔
答え こま(独楽)
「天狗」を「魔」に変換するのは中世なぞなぞの常套的手段だそうです。
また当時は猫をコマ(ネコマの下略)といったので、答えのこまは猫のことかもと編者が書いてます。
遊びながら室町時代の言葉が勉強できるとてもお得な本でもあります。
◎謎立
書写は近世初期。144問が収められてます。
謎立はなぞたてと読みます。当時は「謎を立てる」といっていたので、なぞなぞはなぞたてと言われていました。
この書物の特徴はなぞなぞの作者名がかかれてあることにあります。
冷泉為広、能阿弥、後土御門天皇、飛鳥井栄雅、三条西実隆、今出川教季などなど当時の公家文化人の一流どころがそろっており、なぞなぞ遊びは和歌・連歌などと同様に言葉遊びとして楽しまれていたことがわかります。
さきほど挙げた中御門宣胤の日記には、文明13年2月2日に、後土御門天皇が当夜の番衆になぞなぞの新作を所望され、中御門宣胤らがなぞなぞをつくってさしあげたとあるそうです。
そのときの問題がこれ。
「西行はさとりて後髪をそる」
これな~んだ。
答え 経
「さいぎょう」から「さ」をとる=いきょう
「いきょう」の上(頭髪のことから)を剃る=きょう
文明13(1481)年にはさきほどの5月5日のほか幾日もなぞなぞ新作が作られています。
このなぞたては宮廷から武家へひろがり永正元(1504)年室町御所でも行われていますし、安土桃山時代になると武家がなぞなぞ集を書きとめてます。
さて、これまでに挙げた天皇の名前をみてお気づきでしょうか。
いずれも応仁の乱以後の天皇で、朝廷がもっとも貧窮していたころの方々です。
後土御門天皇は在位が寛正5(1464)年から明応9(1500)年まで。大内政弘と同時代で、政弘が後援した連歌集「新撰莵玖波集」はこの天皇により准勅撰となっていますし、山口市大内の興隆寺にある扁額「氷上山」(県指定文化財)の筆者はこの天皇です。死後、幕府が葬儀の金が捻出できず、一ヶ月以上遺体はとどめおかれたといいます。
後柏原天皇は在位が明応9(1500)年から大永6(1526)年まで。大内義興と同時代で、義興が京都で山城国守護を務めていたときの天皇です。即位の礼の費用がなく、本願寺や幕府の献金などでようやく行えたのは永正18(1521)年でした。
後奈良天皇は在位が大永6(1526)年から弘治3(1557)年まで。大内義隆・義長と同時代です。この天皇も即位の礼の費用がなく、大内義隆の献金などで天文5(1535)年にようやく行えました。
このように当時の朝廷には金がなく、それで金のかからないなぞなぞ遊びが流行ったんだろうという意見があります。
朝廷は後奈良天皇のつぎの正親町天皇のときに権威がもちなおし、財力も安定しました。