大内政弘の和歌の特徴として、海士の歌が多いというのがあげられるのではないかとおもいます。
海士(あま)とは、海人・海女とも書き、現在では海に潜って真珠やあわびを採る人を主にさしていっているようですが、昔は、海または湖で魚類・貝類・海藻などを取ることを業(なりわい)とする人のこと全般をいっていました。
政弘の和歌集では全部で17首に海士が出てきます。和歌集のなかの1%ちょっとの割合です。多いとおもうのですが。それは海とつながりの深い大内氏ならではといえるのではないでしょうか。
①『江上暮春
暮れてゆく春の入江の海士小舟かすみやのこる遠ざかるなり』
沖へ向う小舟がかすみのなかへ消えていく情景を詠もうとしているのでしょう。
「のこる」「遠ざかる」と動詞をつづけているところがこの歌のミソです。
②『釣夫棹月
海士人も舟出してけり釣の糸の長き夜あかす月にうかれて』
「糸が長い」と「長い夜」をかけてます。夜釣りの歌なんてそうそうないでしょう。のほほんとしてていいとおもいませんか。
③『初見恋
はかりなき千尋をぞ思ふ海士の子のけふかりそむるみるめばかりに』
④『寄海恋
いせの海やかりし渚のみるめだに遠ざかり行くあまの釣舟』
⑤『見増恋
袖ほさぬ涙のうみの海士ぞわれくやしやなどてみるめかりけん』
「みるめ」は「海松布」と書き、海草「みる(海松)」のこと。食べられるそうです。
和歌では「見る目」とかけていて、「会う」という意味があるそうです。
政弘は恋歌にも海士を詠みこんでいます。
⑥『浦霞
みつ塩の汀も見えぬ朝ぼらけ霞をはこぶ浦の海士人』
「汀」はみぎわで水ぎわのこと。満潮の水ぎわが見えないほど朝靄がかかっている。そんな景色のなかに海士がいるが、その海士たちは霞を運んでいるようにみえる、といったところでしょうか。海士たちは朝漁に出ているのでしょうか。
朝夕の違いはあるけど似た情景の「江上暮春」の歌より分かりやすいですね。
⑦『海辺霞
心なき海士も春とや祝ひ島舟路のどかになみぞかすめる』
祝ひ島は山口県の祝島のことでしょうか。「春を祝う」と「祝島」をかけてます。「祝島」という名詞を軸に歌ができないかと苦吟して作った歌でしょう。
「心ない海士でも春を祝う」ということですが、「心なき」は「祝う」を引き出すための言葉で、実際に「心ない海士」がいたわけではありません。
穏やかな春の瀬戸内ののんびり感がでていていいですね。
⑧『江紅葉
遠き江のたく火は海士の家ゐかと紅葉によする秋の船人』
焚き火とおもったら紅葉だったという歌でしょうか。それとも紅葉のもとに家があったか。
⑨『浦松
心ある海士やうゑけんといにしへを事とふ松に浦風ぞふく』
どこか故事のある松原を詠んだ歌のようです。
⑩『海村
浦風の吹上の藻くづ貝のからともしくも見えぬ海士の家島』
家島は姫路市の沖にある島です。瀬戸内海の寄港地として有名な室津の真南10kmの沖にあります。大内政弘は応仁の乱のときの上京のさいに室津で一ヶ月間留まってますから実際に目にしたことがあるのは確実です。
「海辺に吹く風に吹き上げられた藻屑。貝の殻。灯火も見えぬ海士の家島」といったところでしょうか。名詞が並んでいるところがミソです。
⑪『漁夫
のどかなる浪路としるや朝日影あらそひ出づる海士の釣舟』
朝漁に一斉にでる海士たちの威勢が感じられる良い歌です。
⑫『舟
独のみ釣する浦の海士を舟床せばからずあはれ世中』
舟床は辞書では舟床に敷くすのこととあります。せばからず、は狭くないの意でしょうか。
広い簀の子に独りぽつんと釣りをしている漁師さんです。あはれ、と書かれてあることからこれは実際に見たことのある風景ではないでしょうか。
⑬『湖眺望
心なき海士こそからねさざなみやこと浦よりもしげきみるめを』
⑭『江上月
心なきあまにはあらじたび人や入江の月に小舟漕ぐらん』
心なき、とは風流心のない人のことです。どうもこれだけ「心ない海士」がならぶと、当時の海士は風流心のない人という認識が世の中にあったのではないかとおもえてきます。
月が美しい入江に船を出すような風流なことをしているのは、あれはきっと海士ではなく旅人だろう。
⑮『旅泊紅葉
うき枕いづくの山ぞ海士小船初瀬にはあらぬ峰の紅葉ば』
初瀬は奈良県の地名です。当時紅葉の名所だったのでしょうか。
⑯『藤埋松
田籠の浦や海士人ならで咲く藤の梢も浪をかづく松かな』
田籠の浦はみなさんご存じ富士山の見える富士市の海岸のことです。政弘が実際にそこに行ったという記録はありませんから、この歌はいわゆる「名所和歌」、名所を詠みこんで作る歌の一種でしょう。「富士」と詠みそうなところをわざとそらして「藤」で作っているところがミソです。
⑰『海辺懐旧
いにしへをとふとも今はさだかにはいかがこたへん須磨の海士人』
政弘は二度上京してます。応仁元(1467)年のときと、ずっとのちの延徳三(1491)年の六角氏征伐参加と。延徳のときに24年前を思い出したのでしょうか。
山陽本線を大阪からとことこ下っていくと左側にちらっと明石大橋の巨大な橋桁がみえます。明石海峡がそこに横たわっているはずですが、山陽本線からはよくわかりません。この海峡を越えたら実質的な瀬戸内海で、そこまでは大阪湾のようです。都の人は昔から明石海峡を越えたらもう都の方が眺められなくなるのでここから旅路だとおもったようです。逆に、政弘ならここから都圏から山口圏ということですこし気楽になったんじゃないかなと想像するのです。
この須磨を詠んだ和歌の他に、先に挙げた家島を詠んだ和歌、それに
『千鳥
葦の屋のなだの塩風さむき夜にこゑのいとまもなき千鳥かな』
『海上霞
船出せしわがすむかたもそことなくあし屋の里にたつ霞かな』
『旅泊月
明石がた月にしられて浦の名も今夜はとはぬ秋のたび人』
『春曙
船もなくかすむ明石の島陰に朝霧おもふ春の明ぼの』
これらは、灘、芦屋、須磨、明石と船旅をしたときを思い出して詠んだ歌でしょうか。
この辺りを詠んだ歌は万葉集の柿本人麻呂まで遡ります。難波津から加古川(明石のちょっと先)までの往復の「船旅の歌8首」といわれるものがそれです。これらの歌はのちのちまで影響を与えたらしく、後世人はみなおなじ気持ちで明石海峡を詠んでいるそうです。おそらく政弘もそんな常識を踏まえてこの辺の歌を詠んだと思います。
とすると、いにしへとは柿本人麻呂のことかともおもいます。
以上、海士の歌を並べてみましたが、政弘はそれ以外にも舟だの釣りだの水関係も多いです。それだけ政弘と海とのつながりが深かったといえるのではないでしょうか。瀬戸内海を支配し、明や朝鮮と貿易した大内氏の当主ならではで、他の和歌詠み大名とちがう特徴だとおもいます。
最後にそのなかの一首を紹介します。
『江上納涼
夕しほは遠く入り江の松陰やたゆたふ船にすずむ里人』
夏の夕方の納涼気分がよくあらわれているとおもいます。
海岸線から引っ込んだ入り江。干潮で引いた夕潮が遠くに見え、松林の木陰には、入り江に残された海水の上でゆらゆら揺れる船があって、漁を終えた里人が涼んでいる。
「たゆたふ」という言葉の響きがもつ船が揺れている感覚とのんびりとした雰囲気が、「すずむ」という言葉の語感がもつ速さにさっと風が吹いているような感じがしませんか。
※引用はいずれも「私家集大成6・新編国歌大観8『拾塵和歌集』(角川書店刊行)」より