大内文化まちづくり~甦れ歴史空間~|山口県山口市

山口祇園祭

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山口祇園祭は室町時代よりつづく山口の代表的なお祭りです。
時代によってその姿は変遷をみせています。

山口祇園祭について(昭和八年度版山口市史より)

(注:旧漢字を新漢字に変えています。)

山口の祇園会は応安二年(正平二十四年)大内弘世が京都の感応院より勧請して後、長禄三年六月十四日、大内教弘の代に初まると祇園由来記に記されてある。其の頃よりして京都の祇園会に擬したる祭典行事が挙行され、漸次に盛大となったことと想はれる。

其の後百二十年を経たる延徳四年六月の制札に、

於築山築地之上、祇園会、其外自然之見物、被加制止訖。殊御寶殿、同鎮守邊、諸人群集剰於右築地之上構棧敷事、堅固御禁制也、伹新豊院仰之時者、従寺家對寺奉行可尋之。若此旨有違背之族者、可被處厳科之由、所被仰出壁書如件。

とある。其の殷盛雑踏の程が推知せられる。

祇園名物の飾山鉾山も古くから有った。永正十八年の書き物に

当年より前々の地拍子を停止せられ、長刀ぼこ一、三日月ぼこ一、もものほこ一、己上なり。大町より勤之。其外作物者、如先例之、右御幸次第、御旅所儀、ほこ三の次第、いづれも当年よりはじまる也。

とあるを見れば、其の頃、盛に種々の飾山等があったのである。

毛利氏の治世になっても、氷上の二月会、山口の祇園会、九月の三ノ宮(仁壁神社)、今八幡宮の祭例には吉例によって、定日、知行千石乃至四五千石の寄組衆が藩公の代参として、萩城下より出張することになっていた。唯、元禄七年二月七日、毛利吉就の卒去によって其の年は氷上山の二月会は六月七日に変更せられた。しかし、氷上山の童舞は代るに能楽が挙行せらるゝことになった。

後、天保十二年に至って能楽を廃して舞楽を行ふことになり慶親の代の初迄は行はれていたが、国事内外多端なるに及んで遂に廃止となり、現今の氷上には最早其の余波をも見出すことが出来ぬやうになった。

然るに元禄年間の長藩財政不振の結果、藩は宝永元年三箇年間の倹約令(御仕組)を布くことゝなり、其の六月の祇園会よりは、初めて山口町奉行が御代参といふことになり、根来治郎右衛門が祇園会及び九月の今八幡、三ノ宮へも代参することゝなった。同五年に至って再び萩より名代出張し、今八幡の流鏑馬二頭も萩より来ることゝなったが、正徳三年復た倹約令布かるゝことゝなり、山口町奉行が名代することゝなった。

其後、享保九年に至り二月能には穴戸平馬、六月祇園会には栗屋三右衛門が萩より代参する等のこともあったが、此の間、屡次倹約令も出る程の時代であったので、祇園会の継続には当事者も相当に苦心したことゝ想はれる。即ち享保九年の四月、山口町奉行より当職毛利筑後へ差し出した覚書に

山口祇園六月七日の神事、通り物之儀往古より有之候へ共、其品相極候處に四十ヶ年以来は本町四町より四ヶ年一度宛踊車仕出、其町へ付候脇町にても勝手次第に相應の通り物仕来由に候、本町踊之儀も他所より踊子を雇申にても無之、馴しなど造作も差而入不申様に相聞、四十ヶ年以来中絶も無之由旁々付此後も不被差留候、然は愈以踊子等御国中にても勿論衣類等も古法の通絹布は不差免御除木綿を用可申候。脇町通り物にても金銀の□飾金入今織之類不差出諸事随分輕く相調候様に可申付候事。

とある。

無論、祇園会継続上、山口町奉行の手心を以て藩政府へ申告したのではあるが、費用支出上に多少の困難があったこと等、其間の消息が窺はれる。

次に、山口祇園会の山車、神事行列等について書いて見よう。祇園会の山車を仕出すについては、毎年嘉例吉日を選んで頭人(其の係りの重立ちたる者)中が潔斎の上寄合をする。天正の頃には古例によって本頭屋には車の紋を染め出した幕をうち、山口町奉行、手代衆、社人等を請待し町内の者が集って「大寄合」と称する神事を行ったのであるが、後には略して大市、中市、米屋町の頭人より毎年六月に朔に酒瓶三組、祝餅を御茶屋、町奉行に差出すことになった。それも万治二年の春、町奉行作間新五左衛門よりの言によって提餅はせぬことゝなった。しかし、道場門前の山の頭人は旧例により毎年正月中旬過ぎには「祇園の寄合」といふことをした。

来頭人請待申候に付来頭人仲寄相日には来本頭之所へ参り候、左候而本頭の方より七度の使参り候、来頭人中足いたし候、八度めのつかひには道半にて逢候故、七度の使にて来頭人参り候。其時亭主方頭人中も七度目の使遺し候時は、頭屋の前へ出向請待、来客にて互に礼儀仕、夫より主客共に家内へ入申候。(中略)双方頭人みなみな麻上下袴着仕、云々。(祇園由来記)

そして三町の車の頭人、堂の前の鷺の頭人、町年寄同行にて例年の如く五月朔の朝、御茶屋へ屈出をする。藩公から大市中市、米屋町の山車へ古例として銀百目の下賜がある。三町の頭人が御茶屋へ出頭して米銀方から受取り三十三匁三分三厘宛割賦して請取る。

さて、六月(陰暦)七日の当日となると、巳午の刻より祭礼を開始する。一方通り物、踊等の賑は、同五つ時(午前八時)には伊勢で揃ひ、鷺舞の後に通り物、諸芸を演ずるのが古来からの例であり、時間の関係上、堂の前の鷺舞は早朝に祇園社并に伊勢神楽所の前で舞ふ。

神幸行列の次第は、鼻高、獅子、御幣太鼓、上卿(今八幡宮大宮司が古例よって馬上供養)社僧(神光寺興にて供奉)御太刀、大宮司(祇園社司馬上にて供奉)御輿上鳳凰鶺鴒六角(輿)社宮供奉御輿太鼓上鳳凰鶺鴒八角(輿)社宮供奉御輿太鼓上宝珠鶺鴒四角(輿)で、これを舁く駕輿町人数も定っていた。

三人 伊勢之門前町 二人 獅子 一人 太鼓
一人 飯田町 太鼓持
十人 今道 六角御輿
二人 上立小路同上
二人 片岡小路 八角御輿
七人 本町   同上
五人 下讃井町 同上
六人 八幡馬塲 野田築山町 一人長柄傘持一人社僧の長刀持四人社僧輿

鷺の行列は鷺が二人、杖遣二人、鞨鼓二人、鐘鼓一人、小鼓一人、大鼓打一人、笛二人、笠鉾九本である。

堂の前町の者が麻上下で鷺の左右を警固し、別にお茶屋手子四人、捻鎗が差添ふ。祇園社、伊勢神楽所の前の舞が了ると多賀神社の社前に通りかゝって舞ふ。それより、町奉行、同女中、氷上山、常栄寺、泰雲寺、妙寿寺、大通院、周慶寺の八ヶ所の桟敷前に舞って下る。それが堂の前に戻って来る間は他の踊、行列は下立小路に待って居る。

これより、大市、中市、米屋町三町の町年寄、御用聞、車の頭人の家宅の前で舞ひ、道場門前と今市との辻角、(後には道場門前に入ったこともあった。)御旅所で舞った。他の踊、諸芸は鷺の舞のあとで演じて下るのであった。因に、正徳四年に堂之前町中の者の書いた「山口祇園会鷺之一巻」の中を参考として一部次に抄録する。

一、 正徳四甲午年頭人 本頭津守平左工門組
南側中上ノ方伹一屋敷之内両方ヘ加
弘中武右衛門 伊藤三左工門 吉村三郎兵衛
弘中清左工門 河野興左工門 津守平左工門
立売町の角 東上ノ方窪ノ浄泉寺へ行角 同隣
田中七郎兵衛 寄頭 おいち 寄頭ゆつたや十郎左工門
同隣
寄頭市右工門
以上拾軒催相之分
伹笠鉾は弘中武右工門半本、伊術三左工門壹本半、吉村三郎兵衛、 弘中清左工門、河野興左工門、津守平左工門、田中七郎兵衛壹本宛、 五本、又外に吉村三、弘中清左工門両人催相にて壹本、又おいち、 十郎左工門、市右工門催相にて壹本以上九本也
一、 鷺舞之役人拾三人
伹三月吉日頭人寄相之時酒飯振舞之事。
六月六日之晩鷺勢揃之時は酒振舞之事。
同七日朝酒振舞候也。
鷺舞役人の賃銀は頭人中之を出銀。
一、 鷺舞諸道具破損仕候時は堂之前中間(軒)別出銀を以て 相調申候伹屋敷面口之割符にて候事。
一、 鷺のかしら雲谷等顔作と申傅ふ。
一、 鷺舞、大市より譲り堂之前町中より調出候、 最初は年號慶長之始にて可有御座と存候、 先年古老えものも相尋とも年代不極候、 然共前後之段諸事見合寄は相考申候へは右之分に可有御座候事。

次は御上の山と称する山車のことである。之れも慣例によって諸事が定められていた。其の柱や諸道具は六月朔に今道御旅所へ格納してある物を取り出す。其の組立より最終に至る迄の事に従事する町大工棟梁、御山大工、御用鍛治目代、人形屋御用者、同頭人等所謂搦手二十七人が山口町内で撰ばれる。其の賃銀高八匁九分、一人分七分宛であった。

六月十日に諸道具を洗浄して組立を始める。十一日には善生寺で晝飯の御賄が出る。前の二十七人の外に御茶屋定番師一人、御米銀方本締一人、同所賄方手子一人、御作事寺本締一人打廻り二人、及び寺内の若等約六十人前の配膳で、朝田村から内三人出る。膳椀は大市、中市、米屋町、道場門前町の家々から持ち寄る。此の飲食の材料も定まっていた。

即ち

玄米二升。
味噌二升。
酒壹斗二升。
塩一升。
酢一升。
干鯖十差。
胡瓜二十。
束くろめ十把。
白箸三把。
豆腐二丁。
こんにやく四丁。
塩瓜十割。
薪二把。

であった。

御上の山組み立てる諸道具は其の数と引受の村が定まっていた。
即ち

一、かづら三十五荷 吉敷村より
一、濃竹一把縄二束 御堀村より
一、 しもと六荷 長野村より
一、足竹六十本藁二荷 下湯田村より
一、ねぢ木貳荷 深野村より
一、飾まつ五本 古熊村より
一、栗の木(花をつける材)糸米村より
一、舁棒長さ六尺 仁保、小鯖二村

であった。

御上山の人形は福禄寿と布袋とが隔年に飾られることになって居り、福禄寿は鶴と鹿と桜、布袋の時は唐子と梅花とに定まっていた。唐子は人形屋が仕出すことになっていて賃銀が十二匁宛支給され、人形の衣裳、山飾りの結、紫の上幕、花色晒の下幕は御茶屋の道具方より、籠は後河原五器家中より出すことゝなり、紫のたくり、蚊帳、帯、かたびら等は大市、中市、米屋、道場門前の諸町の質屋から出すのが例であった。

尚、祇園夫二十五人は上湯田村より出す、御祭礼の時は公儀より一人に米七合五勺、高壹斗八升七合五勺が下る。祇園薪三十荷は吉田、恒富の両村から出る。(使用残りは御茶屋の風呂薪になった。)

別に六月七日の夜より十三日の夜迄一夜百韻宛の連歌興行があった。これは還幸の際神輿へかける。 十一日、御旅所で御供膳があり、十三日午過ぎ藩公御名代町奉行御旅所へ社参。十四日、御上山の飾が出来上ると祓式がある。諸町の飾山も今市に山揃をする。お茶屋へ付届を為ると町奉行が検分の意味で御旅所へ来る。其れが帰ると直ぐ備立をする。還御の時の備立は神幸の時と同様。諸町飾山の順は往時のくじ(鬮)番があって所定の通りに御供をする。

一番 御上の山
二番 西後河原
三番 東後河原
四番 中川原
五番 御局小路、北野小路(猩々、隔年)
六番 今市、鰐石町
七番 下立小路、久保小路
八番 上金小曽町
九番 相物小路(恵比寿)
十番 錢湯小路(大黒)
十一番 荒高、西門前町
十二番 道場門前
十三番 馬場殿小路
十四番 今小路、松木町
十五番 石観音、道祖町
十六番 下金小曽町
十七番 圓政寺前
十八番 大市(車)
十九番 中市(車)
二十番 米屋町(車)
以上十七山 三車

三つ町の車へは藩の米銀方から銀百目(以前は一貫目)が下賜せられた。この三つの山車が今市から米屋町へかゝると笛太鼓面白く噺し、鞨鼓をうつ。堂之前の角では鷺舞の返礼に鞨鼓をうつ。

御上の山の舁手は二百人、宮野、矢原、平井の村々、小郡宰判は一番(小郡嘉河村)、二番(陶、鋳銭司村)、三番(台道、下津領村)、四番(白松村)、五番(秋穂町)、の五組が年々輪番に出る。そして前方の棒五本に小郡宰判の者、後の左の棒が宮野村、中棒が矢原村、右棒が平井村とその受持箇所まで定まっていた。

諸山車を築山に揃へて藩主御名代の上覧に供へる。此の時、山舁の者へ酒樽三荷(内容九斗)、肴三折(鯛三十尾)、饅頭三折(六十箇)の拝領がある。御茶屋の米銀方の手子が披露役になる。御山舁の出た村の庄屋中が麻上下着用で拝領して夫々へ分配する。

それが済むと車を御前へ曳いて鞨鼓を拍ち小謠三番宛謠ふ。謠も三町共に旧格によって定まって居た。

大市    高砂  老松  弓八幡
中市    高砂  浮舟  養老
米屋町  金札  三佐保  難波

其の後各、車に献上の為めの造花二本宛を御名代に取次衆をもって差し出す。

右は旧藩政時代に於ける祇園会の概略である。しかるに時代の変遷と共に祭祀行事等も変遷し、一時有名であった丈高き人形山(例令は、宇治川合戦、川中島合戦、佐野常世等を作り出したるもの)も市街の電線架設其の他の関係によって昔日の如き壮観を見ることが出来ぬやうになった。

[ 引用文献 ]
昭和八年度版山口市史(山口市 マツノ書店 1992年刊)

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