大内文化まちづくり~甦れ歴史空間~|山口県山口市

企画展「没後150年 大楽源太郎の生涯」

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 10月27日から12月20日まで、十朋亭維新館にて企画展「没後150年 大楽源太郎の生涯~玄瑞の友!益次郎暗殺の黒幕?」が開催されました。

 

大楽源太郎は志士であり教育者です。教え子の中には四境戦争(第二次長州征討)や戊辰戦争に出征した者もおり、その中の一人が陸軍元帥・首相にまで至った寺内正毅(1852~1919)です

 図は月性肖像画です。月性は大楽が強く影響を受けたひとりです。
 大楽が影響を受けた人物として他には広瀬淡窓や頼三樹三郎・梅田雲浜がいますが、4人とも安政年間に亡くなっています。特に頼と梅田の2名は安政の大獄によりそれぞれ刑死・獄死しています。大楽も藩により蟄居を命じられますが、脱走して連れ戻されています。

 

 

 吉田松陰没後、大楽は久坂玄瑞と交流を持ち、攘夷活動を行っています。元治元年1月には冷泉為恭を「幕府におもねった」として暗殺します。7月の禁門の変でも斥候として加わりますが、この戦いで久坂は戦死し、故郷に戻り西山塾を開きます。

 

 

 その後、元治の内乱で高杉に呼応して挙兵しますが、部隊は解散を命じられるなど不遇を囲います。そして、「富国強兵を行った後に攘夷を行う」とする議論に不信感を抱いていきます。

 

 明治2年に大村益次郎が襲撃された際、下手人に大楽の門弟がいた事で謹慎、
同時期に起こった脱隊事件においても門下生が脱隊兵側についていたため召喚されますが、逃走しました。そして、久留米藩まで逃亡しますが、久留米藩も二卿事件や広沢真臣殺害事件などで窮地に立たされていました。結果として大楽は殺害されてしまいます。写真は大村益次郎です。大楽とは広瀬淡窓が主催した咸宜園の同窓でもあります。また大村襲撃後、児玉源太郎とともに大村を担架で運んだのが大楽の門下生でもあった寺内正毅だったそうです。

 

 展示を通じて見ると、大楽は不器用な正直者というイメージを持ちました。

 

 なお大村益次郎が亡くなったことで陸軍内のパワーバランスが変化し、主導権が山田顕義らから山縣有朋に移ります。そのため、大楽は明治以降の政治史に大きく影響を与えたといえるでしょう。

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