大内のお殿さま
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山口県を中心に西中国から北九州北部にかけて200年に渡って統治した一族
24代弘世以降、尼子氏や毛利氏との戦いに敗れて衰退、滅亡するまでの約200年間、大内氏は山口を本拠として栄華を極めました。
大内氏は、朝鮮王朝の求めに応じて倭寇禁圧のための軍勢を派遣するなど、朝鮮王朝や明国と積極的に通交、交易を行いました。これにより得られた莫大な富や、強大な軍事力を背景に、守護として国内の政治的動きで大きな役割を果たしました。
また、山口は、16世紀中頃の史料である宣教師サビエルの書簡によると、「日本で最強の領主(大内義隆)がいる」、「一万人以上の人びとが住み」と紹介されるほどに繁栄していました。
大内氏の勢力図
大内氏系図
大内氏略年表
24代 弘世(ひろよ)
長門国の守護厚東氏を討伐して、1363年周防・長門国守護に、1366年には石見国の南朝勢力を駆逐して、石見国守護に任じられる。
25代 義弘(よしひろ)
- 1391年の明徳の乱(和泉等11ヵ国の守護山名氏の謀反)における功績で、1392年和泉・紀伊国の守護に任じられ、周防・長門・豊前・石見国と合わせて6ヵ国の守護となる。
- 1392年、将軍足利義満の命を受けて南北両朝の和睦を調停する。
- 1399年、有力守護大名の弱体化を図る足利義満と対立し、応永の乱(義弘と義満の戦い)により堺で戦死する。
- 対朝鮮貿易を開始する。
26代 盛見(もりみ‐もりあきら)
- 幕府から臣従することを条件として家督相続と周防・長門2ヵ国の所領を安堵された弟の弘茂を攻め滅ぼして家督を継ぎ、その後、幕府と和解し、周防・長門・豊前の守護となる。
- 1431年、筑前の代官として筑前国に行き、少弐氏、大友氏と戦い、戦死した。
27代 持世(もちよ)
- 家督相続をめぐり、義弘の子持盛と争い幕府の6代将軍足利義教の支援を受け、これを攻め滅ぼす。
- 1441年、嘉吉の乱(播磨等3カ国の守護赤松氏が将軍足利義教を殺害)の際に重傷を負ったことが原因で亡くなる。
28代 教弘(のりひろ)
- 幕府の命を受けて少弐氏を筑前国で討つ。伊予国の守護河野氏を援助し、細川氏と戦うために出陣した直後に病死する。
- 朝鮮王朝から通信符を与えられ、交易の自由を保障される。
- 幕府から遣明船の経営権を獲得。のちに雪舟が山口に来るきっかけとなる。
- 大内氏館を拡大し、自邸として築山館を造営
29代 政弘(まさひろ)
- 1467年、応仁・文明の乱(山名氏と細川氏の権力争い)で西軍山名方の主力として出陣し、10年間にわたり転戦する。この間、伯父教幸の謀反や少弐氏の侵攻にあうが、鎮圧する。
- 法令集である「大内氏掟書(壁書)」の条文が多数発布され、大内氏の領国支配体制が急速に整えられる。
- 連歌の第一人者宗祇を招き『新撰菟玖波集』の編集を援助。自身も歌集『拾塵和歌集』を編さんした。
30代 義興(よしおき)
- 流浪の身であった足利義稙[よしたね]を将軍に復職させた功績で、山城国の守護に任じられ、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見国と合わせて7カ国の守護となるとともに、管領代として11年間京都にあり、一時期ではあるが幕府の実権を握る。
- 1518年、管領代の職を辞し、山口へ帰った後、安芸・岩見へ出兵、尼子氏と戦う。
- 伊勢神宮を山口へ勧請し、高嶺大神宮(現在の山口大神宮)を創建した。
31代 義隆(よしたか)
- 周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見6カ国の守護に任じられ、1530年からは九州に出兵。1536年には少弐氏を討ち北九州を平定した。
- 1542年には出雲国に出兵し尼子氏を攻めるが大敗。養嗣子晴持を失う。
- 敗戦後、文治派の家臣を重用するようになり、武断派の家臣との対立を生じた。
- 対明貿易(遣明船)を独占する。
- 山口には前関白をはじめ多くの公家や官人、文化人がやってきており、文化都市として繁栄する。
- フランシスコ・サビエルに山口での布教を許可する。
32代 義長(よしなが)
- 1552年、山口に入って大内家の新当主として擁立される。
- 1555年、厳島合戦で後見の陶晴賢[すえはるかた]が毛利軍に敗れる。
- 1557年、高嶺に城を築き毛利軍の侵攻に備えたが、間もなく城を離れ、敗走の末、自刃する 。